北方ユーラシアとガラス器

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百済

さて私はとある国を無視してるような気がする。
そう『百済』だ。

この『百済』、『日本書紀』を読めば極めて重要な存在であることがわかる。
『日本書紀』によれば百済は純情可憐な、乙女みたいな『聖なる存在』で、高句麗は『巨悪』、新羅は『極悪』だと書かれている。

日本書紀の採点によれば百済は98点、高句麗は3点、新羅はマイナス100点といった感じだ。

日本書紀の価値観、719年右衽禁止令を発布し、翌720年に「中国文字」によって書かれ完成した日本書紀の価値観によれば、当然そのような結果になるだろう。

百済は『倭』の『中国化』に大きく寄与した。
それは間違いないだろう。

しかし問いたいのはそこじゃない。「中国化」ではない。

『中国文明』ではない、もう一つの文明、
『北方ユーラシア文明』は一体どのようなルートを通って『倭』に入ってきたかということだ。

参照 埴輪 日本陶磁大系3
参照 埴輪 日本陶磁大系3

問われているのは『中国』ではない。
何故『倭人』は、『私たち』は、『胡服』を着、『胡座』してるのだろうか?

参照 埴輪 日本陶磁大系3
参照 埴輪 日本陶磁大系3

問われているのは『中華』ではない。
何故『私たち』は『左衽』をし、『耳にピアスの、イヤリングの穴』をあけているのだろうか?

『日本書紀』は『人物埴輪像』の世界を表現できていない。
逆に『人物埴輪像』の世界は『日本書紀』の世界を表現できていない。

お伝えしたいことがある。
この百済、『角杯が出土していない』のだ。
百済にだけ出土していないのは他にもあるのだが。

そんな出土しない国のことを考えるよりも、実際に出土する国について考えてみませんか?

参照 Silla: Korea’s Golden Kingdom
参照 Silla: Korea’s Golden Kingdom

もう一度、『新羅』へ。
めぐり、めぐって、もう一度『新羅』へ。

新羅王陵とガラス

新羅が『北方ユーラシア文明』と密接であることは明白だろう。
金飾の世界。
左衽の世界。
角杯の世界。
そして中国文字がまるで存在しない世界。

それは新羅が1000年をはるかに超える偉大で完成された文明と歴史を享受していたことに加え、『当時当世』においても北方世界と切り離すことのできない関係であったといえる。

北方世界を中心とする『東西交易』の一つとして。

その一つの証拠が新羅王に副葬された『ガラス』に見て取れる。

参照 Silla: Korea’s Golden Kingdom
参照 Silla: Korea’s Golden Kingdom
参照 Silla: Korea’s Golden Kingdom
参照 Silla: Korea’s Golden Kingdom
参照 Silla: Korea’s Golden Kingdom
参照 Silla: Korea’s Golden Kingdom

上記の説明に『Late Roman』と書かれている。

いわゆる『後期ローマンガラス』と呼ばれるものだ。
実際にローマで作られたのかどうかはわからないが、その製作地が新羅から遠く離れたヨーロッパ方面にあることは確実だろう。

彼らはガラスを愛した。
極めて珍しく、価値の高いものであったのだろう。

現在では100均か300均のショップで売ってそうなものだが、当時としてガラス器を手に入れるのは至難の業であった。
遠く離れた西方、西域で作られたガラスを破損せず、ユーラシアの東の端の先、新羅王都『慶州』まで運ぶにはどのような苦難、困難があったのかは推測できるだろう。

貴重で特別な地位の人間しか所有できないガラス器。
そして死後の世界にもガラス器を持っていきたいと。
彼らはそんな思いでガラスを墓に副葬した。

このガラス器が出土する場所が新羅以外にもある。

一つは『北魏』。

北魏のガラス器

参照 平城文物精粹
参照 平城文物精粹
参照 平城文物精粹
参照 中国古代玻璃器皿
参照 中国古代玻璃器皿
参照 中国古代玻璃器皿
参照 中国古代玻璃器皿
参照 中国古代玻璃器皿
参照 中国古代玻璃器皿
参照 中国古代玻璃器皿

『北魏』と『新羅』が関係があったことは、文字史料からは見えない。
おそらく高句麗を通して北方世界の『主』であった『魏』と繋がっていたのだろう。

参照 Silla: Korea’s Golden Kingdom

少々マニアックだけど、これのみ『ローマンガラス』ではない。

「possibly China or Korea」と書かれているのは、その製作技法が典型的なローマンガラスでないため。

中国ではガラスの制作は北魏の時代から何百年も前に途絶えてしまっていた。

ところが北魏の時代にガラスの生産が中国で行われたかもしれないとなっている。

魏書列伝第90の西域伝、大月氏国の記載の中に

世祖時,其國人商販京師,自云能鑄石為五色璢璃,於是採礦山中,於京師鑄之。既成,光澤乃美於西方來者。乃詔為行殿,容百餘人,光色映徹,觀者見之,莫不驚駭,以為神明所作。自此中國璢璃遂賤,人不復珍之。

とある。
『北魏』の平城から『新羅』の慶州に。
その可能性はありえるだろう。

残念ながら高句麗からはガラス器は発見されていない。
というか、高句麗からの考古遺物の出土は非常に少ない。
滅びた国の宿命、盗掘しやすい構造の墓のため、理由は様々だがとにかく少ない。
逆に盗めなかった、あるいは盗んでも価値がなかった、『高句麗壁画』がそのまま残っているのは非常にラッキーなことではあったが。

前に紹介した『集安高句麗王陵』、『集安高句麗文物集粹』は現在の中国が『高句麗』を、『高句麗史』を、中国の歴史として捉えるため、そして中国の世界遺産として認定してもらうため国家の威信をかけて発掘調査した報告書にあたる。

参照 集安高句麗文物集粹
参照 集安高句麗文物集粹
参照 集安高句麗文物集粹
参照 集安高句麗文物集粹
参照 集安高句麗文物集粹
参照 集安高句麗文物集粹

こういったものを目にできる現在の私たちは大変ラッキーでもある。
ほんの数年前までは、誰も目にすることはできなかったのだから。

北魏と高句麗 そして百済

さてこの高句麗。『北魏』と並々ならぬ関係を築いていた。
今、適当に『魏書』の帝紀から高句麗の遣使を数えてみた。

せっかくのなんで問題を出してみたい。
高句麗は北魏に通算何回遣使したでしょうか?
A、5回
B、10回
C、91回

答えはCの91回。多分だけど。適当だけど。

問題は正確な数ではなく、その緊密性にある。
戦闘民族『鮮卑』拓跋部の武力行為の警戒のため、あるいは自衛のため、はたまた交易路の保全のため、詳細なことはわからないが、とにかく高句麗は『北魏』と対立しなかった。

そして北魏も高句麗に軍事進攻を行わなかった。
北魏よりも前の時代「慕容燕」の時代、そして北魏よりも後の時代「隋、唐」がいずれも高句麗に軍事進攻を行ったことと比較すれば、いかに北魏、高句麗が緊密な関係であったかがわかるだろう。

そんな中、西暦472年、『百済』は突如、『初めて』、北魏に遣使する。
今まで南朝、中華正統王朝、漢人国家、の東晋や宋にしか遣使をしてこなかった百済、まるで南朝しか真の中華王朝としか認めないというあの百済が、突然北魏に遣使したのだ。

そして百済は北魏に訴えた。
『高句麗は残虐非道、無道、悪道、極道な国家。魏の力を持って成敗してください』。と
本当はもっと長文で、「完璧な中国語の文体」で書かれているのだが、略すとこんな感じ。

適当に数えて通算91回の遣使をする高句麗と北魏。
そこへ初めて遣使する百済の懇願。
当然、北魏は動かず。

逆に高句麗王、『高巨連』の怒りを買い、あるいは「魏動かず」を確認した後で、高句麗王自ら率いる大軍に百済は滅ぼされることになる。

世にいう、『百済第一次滅亡』。
西暦475年のことだ。

一次というだけあって、この後、二次もある。
この百済の外交下手、というより現状の国際関係の著しい認識不足は彼らを最後まで苦しめることになる。
彼らは国際関係、特に軍事力を大幅に見誤る、過少評価する傾向にある。
なぜだろう?中華思想の影響かな?知らんけど。

そしてこの『百済一次滅亡』になぜか「倭軍は出兵しなかった」。

百済と常に親密、緊密だと言われている当時の『倭』はなぜか出兵しなかった。
この『倭軍出兵なし』は400年代の歴史を考えるに非常に重要なことになる。

高句麗、百済、そして日本史上最大の古墳を築く倭王たち。

その関係性は?

カギは新羅が担っている。

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