北魏の服制
さて『左衽国家』、北魏に一大転機が訪れる。
それは北魏第6代皇帝、拓跋宏、諡号を孝文帝と名付けられた男によってなされる。
一般的に『漢化政策』、『華化政策』言われるものがそれにあたる。
この拓跋宏、未熟な世界である『左衽の世界』からより、文明的で、開明的で、進歩的な『中国の世界』に発展させ、国家の質を大幅に向上させた。
と、言われている。
西暦494年、11月、なんと左衽を禁止して右衽にせよと命が出る。
原文:魏主欲變易舊風,壬寅,詔禁士民胡服。國人多不悅 (資治通鑑139)
国家が服装を規定する。
はて、どっかで聞いたことがあるような気が。
さて、この法令、皆が従ったのだろうか?
上記の原文に『國人多不悅』、国人は不満な者が多かった、と書かれている。
事実だろう。
彼らにとってはずっと左衽だったのだ。父も母も。祖父も祖母も。それ以前からも。
史書にこんな話が残っている。
拓跋宏の息子であり皇太子である恂は学問が嫌いで、怠け者だった。
彼は暑くて湿度の高い洛陽が苦手で、いつも北に帰りたがっていた。
拓跋宏は恂に衣冠を与えたが、彼はいつも胡服、左衽ばかり着ていた。
原文:魏太子恂不好學,體素肥大,苦河南地熱,常思北歸。魏主賜之衣冠,徇常私著胡服。(資治通鑑140)
息子であり皇太子でありながら拓跋恂は従わなかった。
こんな話が残っている。
元丕はもとの国風を愛していた。漢化政策の後も、服装も変えず、言葉も昔のままだった。拓跋宏はこれを知っていたが不問にした。
原文:丕雅愛本風,不達新式,至於變俗遷洛,改官制服,禁絕舊言,皆所不願。高祖知其如此,亦不逼之,但誘示大理,令其不生同異。至於衣冕已行,朱服列位,而丕猶常服列在坐隅。晚乃稍加弁帶,而不能修飾容儀。高祖以丕年衰體重,亦不強責。(魏書列伝第二)
国家の重臣中の重臣、元丕は国家の命に従わなかった。だが拓跋宏はそれを罰していない。
ご存じのように漢化政策では母国語も禁止して中国語に統一せよと命じている。
今日から日本語を禁止して中国語にせよと言われたら日本人はどう思うだろう?
それを進歩だと中国人から言われたらどう思うのだろう?
歴史を見るときに、そんな視点が欠けている。
こんな話が残っている。
拓跋宏は任城王澄に問う。
「朕が都を離れてる間、国民の旧俗は変わったかな?」
「日々、新しく聖化に改まっております」
「朕が都に入るときに、夫人が帽子を被り、小襖を着ていたぞ(胡服のこと)、何が日々改まってるだ?」
「そのようなものは少しで、多くのものは改まっております」
「任城、何を言っている!実際に胡服の者がいるではないか!それとも城の中の者が胡服で満たされないと、事実だと認めないのか!」
原文:魏主謂任城王澄曰:「朕離京以來,舊俗少變不?」對曰:「聖化日新。」帝曰:「朕入城,見車上婦人猶戴帽、著小襖,何謂日新!」對曰:「著者少,不著者多。」帝曰;「任城,此何言也!必欲使滿城盡著邪!」澄與留守官皆免冠謝。
婦人たちは従わなかった。それに苛立つ拓跋宏。
中国世界の統治は法によって行われる。
「法治国家」。
文字による法令、明文法、成分法、すなわち律令。
その世界にでは法の公布は即座に現実世界に反映される。
いや反映されると期待されている。
本当だろうか?



北魏の洛陽からの出土品。
なぜ『漢化』の後に左衽が?
「文字」は本当に『史実』を伝えてるのか。
えっ、これは「漢化前」の出土品だって?
確かにそれならば都合がつく。
『文字史料と都合がつく』
いつだって基準は『文字』なのだから。
でもそれは正しいこと?
なぜ文字を正しい基準にするんだい?
だって文字は『人間』が作ったものだよー。
人間が文字を作ったわけで、文字が人間を作ったわけじゃないんだよー。
『文字の本質』を知るには『人間の本質』を知らねばならない。
歴史家はこの拓跋宏の『漢化政策』を絶賛する。
彼の諡号に中華世界にとって特別な「字」である『孝』と『文』を選んでいることにもそれが表れている。
儒教世界が導く『孝』の概念と、文明世界の象徴『文』。
これ以降の北魏を、北朝を『中国国家』として扱う。歴史は。歴史家は。
多分に、願望が入っている。
『中国国家』であってほしいと。
『中国王朝』であってほしいと。
もちろん中国人ならばそれでもいい。自国の歴史を自国で位置付ければ、それで事足りる。
しかしこの『北魏』をそのような狭い領域に押しとどめておくにはもったいない。
あまりにも深くアジア史に関わっている。
もちろん日本にも、日本史にもだ。
北魏以降の服制
さて、少し時代を下って530年代の中国での出来事を記そう。
先ほどの『北魏』、なぜか「漢化」、「華化」した後に東と西に分裂してしまう。
そんな東の『魏』、『東魏』の話になる。
後に敵国、南朝『梁』に下り、『宇宙大将軍』になる前の候景が地方行政官として北豫州にいた時の話だ。
候景は問う。
「服装は左衽と右衽、どっちが正しいのか?」
尚書である中国人の敬顯俊は答えて言う。
「孔子が言っています。『もし管仲がいなければ、私は被髪左衽になっていただろう』と。よって右衽が正しいのです。」
いつかの風景。いつもの風景。
そんな中、当時15歳の王紘なる少年が進み出て、発言する。
「国家は(魏は)北方世界から龍の如く飛び出し、今や中華中原に君臨しています。過去中国において五帝や、三王の時代も、制度、礼儀は異なりました。服制において左衽、右衽、どっちが正しいなんて、何の意味があるのでしょうか?」
候景は少年の早熟、聡明さを奇だとして名馬を送った。
原文:年十五,隨父在北豫州,行臺侯景與人論掩衣法為當左為當右。尚書敬顯俊曰:「孔子云:『微管仲,吾其被髮左衽矣』以此言之,右衽為是。」紘進曰:「國家龍飛朔野,雄步中原,五帝異儀,三王殊制,掩衣左右,何足是非。」景奇其早慧,賜以名馬。(北斉書列伝17)
いつもの風景に異を唱える15歳の王紘。
そしてそれを称える『悪人』候景。
そして送られる『名馬』。
生まれてたった15年。
彼は、王紘は、その短い時間に一体何を見たのだろうか。
世界は変わり始めた。いや、『重なり始めた』のだ。
ちなみにこの王紘、後に東魏最高権力、高澄の直々の配下になる。
そして「主君」高澄が食事の配膳係に殺されるという、悲劇以外の何物でもない場面に遭遇した時、自らを盾に凶刃に立ち向かい負傷することになる。
このことを称して後に高澄の弟であり、『初代北斉皇帝』となる高洋は王紘に贈り物をする。
絹、綿、銭、そして『金帯』、『駿馬』を。
褒賞として贈られる金のベルト、そして『馬』。
そこにある世界は決して中国ではない。
いや「既存の中国」ではない。
「旧世界」の、「旧秩序」の、「旧中華」ではないのだ。
そこに存在するのは過酷な運命を乗り越え、混じり、重なり、溶け合う中で生まれた『新しい中国』なのだから。
『新生中華』なのだから。
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