西暦719年、養老三年、2月3日
さて前項で見たように400年代以降の倭は『左衽』であった。
しかし現在、2021年において、『左衽』は『間違った』着付けだとされている。
着物を、和服を、左衽、左前にすると『訂正』させられる。
間違ってると。
さらにはこうも言われる。
左前は死装束だと。
実際、仏教の葬式では死者を左衽に着付けて死後の世界に送ることになる。
さてなぜ現在ではこれほど左衽を忌み嫌うのであろうか?
一体いつから右衽が正解、左衽が間違いとなったのだろうか?
それはしっかりと記録に残っている。文字記録に残っている。
西暦719年、養老三年、2月3日、すでにその国号を「日本」と定めた国家がある法令を出す。
『初令天下百姓右襟』
今日から天下すべての民は右衽にせよ、と。
冷静に考えよう。国家が国民の服制を規定しているのだ。ファッションを規制しているのだ。
右衽にせよと。左衽はダメだと。
異常だ。
だが異常なことをしてでも導きたかったのだろう。中華思想に。
『律令社会』に。
倭は、日本は、600年代、700年代と中華文明を受け入れ、その生活も思想も、中国へと傾斜していく。
中華文明、中華思想の中で左衽は『夷狄』だと、『悪』だとされている。
自らを『夷狄』、『悪』だとすることはできないので、右衽に変えようということなのだろうか?
自らを自らで否定する。
なぜ?
そこまでして中華に、中国に近づきたかったのか?
それ以前の『非中華的世界』がお気に召さなかったのかい?
さてこの719年、養老三年から一年後、ある一つの『歴史書』が完成する。
すなわち『日本書紀』。
日本の正史だ。そう、中国文字で書かれた、日本の正史。
日本人が心の赴くままに書き連ねたのだろうか?
無理だろう。
どうしても中国文字で書かれてる以上、中華思想に引っ張られる。
左衽がダメで、右衽が正解だという世界に。
夷狄は悪で、中国が正義だという世界に。
『日本書紀』は国家が服制を右衽に強制する翌年に完成したのだ。
その意味を知らねば、『日本書紀』の記載の真の価値は見出せない。
さて、国家が右衽にせよと命令を出したとき、国民は一様に右衽になったのだろうか?
心も体も、服飾も中華一色に染まっただろうか?
果たしてそうだろうか?
そうは思えない。
少なくとも300年以上も『左衽』だったのだ、『倭』は。
300年以上も『夷狄』の世界にいたのだ。
どうして国家が法令を発令したといってすぐに習俗を変えれよう。
父も母もおじいちゃんもおばあちゃんも左衽だったのに。

右衽が正解の世界で『左衽の世界』を正しく評価できるのかい?
右衽の世界はそれほどまでに他者に寛容で、客観性を持ってるのかい?
右衽の言葉、中国文字、『漢字』は歴史を正しく伝えるのに最適なのかい?
どうだろう、見ていこうではないか。
300年代、400年代の中国の服制
さて再び中国に戻ろう。
300年代以降の中国に。
383年、8月、歩兵60万、騎兵27万という史上空前規模の大兵団が中国の南朝にて正朝『東晋』の首都、建康に向かって進軍を開始した。
軍を発した国は『前秦』、そしてその軍主にて国主、君主は『天王』苻堅。
世にいう『淝水の戦い』が火蓋を切って始まった。
対する東晋は名臣、謝安を筆頭に防備軍を配置する。
この謝安の軍備に将軍の一人、桓沖は不安を怯え、自らの軍の精鋭3000人を選りすぐって都の守備に派遣しようと提案をする。
だが、この申し出を謝安は却下。
桓沖は嘆き、こう言う。
「謝安は政治の才能こそあれど軍事の素人。今、大敵が迫る中、謝安は遊びほうけている。軍に派遣した将は年少、で寡弱。天下の行く末は見えた。俺は『左衽』するしかないのか!」
原文:「謝安右有廟堂之量,不閑將略。今大敵垂至,方遊談不暇,遣諸不經事少年拒之,眾又寡弱,天下事已可知,吾其左衽矣!」(資治通鑑105)
中国人、桓沖は自らの国『東晋』が敵国『前秦』に敗れ、「左衽の世界」になることを悲観し、絶望している。
そう、この『前秦』、そして『苻堅』は左衽なのだ。
実際、苻堅たちが左衽をしていたかの証拠はない。
もしかしたら形の上では右衽していたのもしれない。
だが、中国人から見た彼らはまさしく「左衽の世界」の住人として認識されている。
さて、この大戦争の結末はいかに。
それはまた後程。
466年、中国正統王朝『宋』、こと『南宋』で殷琰という男が造反した。
殷淡は数か月にわたって国家と攻防を繰り返すが、やがて劣勢になり、『南宋』の敵国である、『北魏』に帰順することを考えるようになる。
すると殷淡の主簿である夏侯詳という中国人はこういう。
「今回の挙兵はもともと忠節からでたもの。社稷を奉じるものならば朝廷にこそ帰順すべきです。どうして北面して『左衽』しなければならないのでしょうか!」
原文:琰欲請降於魏,主簿譙郡夏侯詳說琰曰:「今日之舉,本效忠節。若社稷有奉,便當歸身朝廷,何可北面左衽乎!(資治通鑑131)
そう中国正統王朝『南宋』の敵、北朝『北魏』もまた左衽なのだ。




困ったことに『中国』の北朝『秦』や『魏』は左衽なのだ。
なぜだろう?
北朝の人は論語を読んでいないのかな?孔子様は左衽がお嫌いなのだ。
なぜ中国人の心の拠り所であり、厳格な服飾制度でもある『右衽』ではないのだろう?
なぜ「反社会的」で蛮族の象徴である『左衽』なのか?
これじゃまるで北朝の人たちは「夷狄」に『帰服』したみたいじゃないか。
『屈服』したみたい、あるいは『征服』されたみたいじゃないか。
それとも『服従』、『服属』、なのかな。
彼らは『不服』じゃないのかな。
もう一度言う。
中国の世界において、世界観において『服』の問題は私たちが考えている以上に大きい。
私たちはこの北朝を「中国の北朝」だとして扱わなければならないという制約を受けている。
もっとシンプルに上記の問題、つまりなぜ北朝の人は『左衽』であるかを考えよう。
シンプルに解決しよう。
彼らは中国人ではないのだ、と。
しかし「文字」として、「史書」として、『歴史書』としては、彼らは中国人だという風に書かれている。
すなわち『中国人君主』であると、『皇帝』であると。
自らの国の王は中国人だと。
そして我われはその中国人王に仕えたのだと。
果たしてそうかな?
この認識では歴史を正確に捉えることはできない。
美しく完成された中国史にケチをつけてるわけじゃない。
この問題は「私たち」にも深く関わっている問題なのだから。
私たちが、『倭』が、何故『左衽』であったのかには、わけがある。
偶然『倭』が、『新羅』が、『高句麗』が左衽だったのではない。
中華中原の王たちが『左衽』だったのだ。
中華の中心、アジアの中心、世界の中心は『左衽の世界』であったのだ。
そして『倭』はその『左衽の文明』を、中国文明を受け入れるよりも300年も先に受け入れることになるのだから。
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