黄金新羅 06 慕容『燕』の馬具 

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慕容『燕』の馬具

参照 三燕文物精粹
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参照 三燕文物精粹
参照 三燕文物精粹
参照 三燕文物精粹
参照 三燕文物精粹
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現在、この金飾馬具がアジア最古層の出土品である。
そして彼らもまたイヤリングをし金のベルトを締めていた。

参照 三燕文物精粹
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参照 三燕文物精粹
参照 三燕文物精粹
参照 三燕文物精粹
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慕容『燕』・高句麗・そして倭

慕容『燕』
西暦300年代、彼らは次々と国家を建設した。
史家はそれぞれ『前燕』、『後燕』、『南燕』、『北燕』という。

参照 中国歴代地図集 東晋十六国
参照 中国歴代地図集 東晋十六国
参照 中国歴代地図集 東晋十六国

この中国王朝、非正統中国王朝『燕』。
彼らは『前燕』の時、遼西、いわゆる中国の東北エリアから、中原という南西方面に軍事進出し、次々と遷都を繰り返す。

342年 龍城(遼寧省朝陽)
353年 薊城(北京)
357年 鄴城(河南省磁県)

この慕容『燕』が300年代に中国、中華に与えた影響は絶大だ。

しかし、この時期、『燕』は高句麗とも戦争を繰り返している。

319年 慕容廆vs高句麗・宇文部・段部の連合軍
339年 慕容皝vs高句麗 高句麗王の和平
340年 高句麗王の世子が慕容皝の下に(其年皝伐高句麗,王釗乞盟而還。明年,釗遣其世子朝於皝)晋書載記第9
342年 慕容皝vs高句麗

この342年の対戦は前燕、慕容皝の圧勝に終わり、高句麗王都、丸都を焼き払い、高句麗王の父の陵墓を暴き、母、妻を奪うという凄惨をきわめる戦いに終わった。

300年代の前半において力関係は完全に『前燕』が圧倒していた。
しかし、流れが変わる。
『後燕』、すなわち慕容垂が建国した当初において高句麗は攻勢に出る。

385年 6月、高句麗が遼東を奪取。
   (六月,高句麗寇遼東,佐遣司馬郝景將兵救之,為高句麗所敗,高句麗遂陷遼東、玄菟。《資治通鑑巻106》)

385年 しかし同年、慕容農の反撃によって遼東は再び後燕のものになる。
(進擊高句麗,復遼東、玄菟二郡。《資治通鑑巻106》)

これまでの燕の圧勝ではなく、両者とも勝ったり負けたりの戦力が拮抗した状態になっていく。

400年 慕容盛vs高句麗
402年 後燕vs高句麗
404年 後燕vs高句麗 (高句麗侵燕《資治通鑑巻113》)
405年 慕容熙vs高句麗

そしてついにこの405年、『後燕』第4代皇帝、慕容熙の時に高句麗は燕の攻撃を跳ね返し、遼東を完全に勢力下におくことになる。
240年後、この遼東を巡って世界帝国『唐』と『高句麗』が激闘を繰り広げる。

さて、整理しておこう。
慕容『燕』と高句麗は常に戦争と講和を繰り返ししていたが、300年代を通じて『燕』の強勢は変わらなかった。
しかし400年前後を境に勢力は均衡、あるいは高句麗優勢へと変わっていく。

問題はこっからだ。

なぜなら、この400年前後に高句麗はわれわれ『倭』とも戦争を繰り返すことになる。

399年 高句麗vs倭・百済
400年 高句麗vs倭
404年 高句麗vs倭

このことは何を意味するのか?

すなわち倭の歴史、日本の歴史において、「朝鮮半島との関係」という限定した条件を当てはめるべきではないことを示唆している。

私たちは日本人なので当然日本を中心に考える。
そして日本を中心に考えると史書、金石文において高句麗との関係までしか考えない。

しかし、視点をずらして高句麗目線で歴史を見ると、西には常に『敵』燕が、そして南からは新興の『敵』倭が現れる。

倭は高句麗を通じて『燕』とも繋がっているのだ。歴史的には。

分断させて考えてはいけない。それらは連動しているのだ。

さてその後、高句麗と倭はどうなったのか?
不思議と史書は、金石文は、何も語らない。

高句麗と倭は、404年以降も『敵』だったのだろうか?
当然だろう。
だって私たちはそう教えられている。
現在に至るまで恒久の敵、『高句麗』。
どうだろう?
果たしてそうかな?
後ほど考察してみようではないか。

その前にもう少し慕容を追い変えよう。

慕容氏

晉書 載記第八 慕容廆において史書は言う。

『時燕代多冠步搖冠,莫護跋見而好之,乃斂髮襲冠,諸部因呼之為步搖,其後音訛,遂為慕容焉。』

時に燕、代の地では、『歩搖冠』を冠す人が多かった。莫護跋という王はこれを見て気に入り、髪を束ねて冠を被るようになった。諸部はそのため歩搖と呼ばれ、後に音が訛り、『慕容』といわれるようになった。

つまり歩搖、歩くと揺れる冠を好んでつけたのでホヨウと呼ばれ、やがて訛ってボヨウになったと。
このギャグみたいな話の歩搖冠、本当に考古資料として見つかった。

参照 三燕文物精粹
参照 三燕文物精粹
参照 三燕文物精粹
参照 三燕文物精粹
参照 三燕文物精粹
参照 三燕文物精粹
参照 三燕文物精粹

歩くと金の薄板が音を奏でる。
どんな音だろう?シャリーン、シャリーンとかかな。
彼らは『公式』の場でこのような冠を使用した。私的な場所、こっそりとした自分用の趣味としてではなく。

一方中国世界で誰がこのような冠をしただろうか?
このような冠をして朝廷に出仕しただろうか?

もしこんなのを頭に着けていたらどうなる?
おそらくめちゃくちゃ怒られる。いや怒られる以上のことが起きるだろう。
中華世界からみれば極めて『不遜』、『非礼』なのだ。
金の冠、しかも、音が出るなんて。
ありえない。
皇帝ですら金冠を被らないのに。

参照 中国北方草原古代金銀器
参照 中国北方草原古代金銀器
参照 中国北方草原古代金銀器

これはいわゆる「代」の地のもの。

そう彼らは中国人ではない。
遊牧民なのだ。
草原世界の民なのだ。

そして中国人は彼らをこう呼んだ。
『鮮卑』と。
卑しい奴らだと。

さあ、上記の遊牧民の造形感覚を美しいと感じるかどうかは大きく分かれることになるだろう。
もし美しいと感じるならもう少し覗いてみよう。
彼らの美を。
彼らの世界を。

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