黄金新羅 04 中華史書における金帯

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金帯・『十三』

中国史書における金帯の登場を見てみよう。
まず史記、漢書、後漢書、三国志などの史料にはまったく金帯は出てこない。
当たり前だろう。中国は金帯の世界と関係ないのだから。

ところがとある時期を境になぜか中華文字史料にその姿を現す。
それが400年代の『北魏』からなのだ。

北魏の歴史書、すなわち『魏書』の巻15の拓跋幹伝に現れる。

太宗出游於白登之東北,乾以騎從。有雙鴟飛鳴於上,太宗命左右射之,莫能中。鴟旋飛稍高,干自請射之,以二箭下雙鴟。太宗嘉之,賜御馬弓矢『金帯』一,以旌其能。軍中於是號曰「射鴟都將」。

北魏第二代皇帝、拓跋嗣、在位409-423年の時代に、
拓跋幹が飛んでるトンビを見事に射たため、皇帝から馬、弓矢、『金帯』をもらっている。
金帯を下賜されること、また所有することは名誉にあたるのだろう。

魏書においてはこれのみなのだが、それ以後、この北魏を受け継いだ東魏、西魏、そして北斉、北周になるとさらに文字記載が多くなる。

  • 追者見其從奴持『金帯』,問昂所在,奴示之。(北史巻31列伝19)
  • 「癡男子!今日無我,明日豈有汝邪?何不急還前營收金寶?」樂從其言,獲周文『金帯』一束以歸,言周文漏刃破膽矣。(北史巻53第41)
  • 文宣後自幸禁獄,執手愧謝,親解所著『金帯』及御服賜之(北斉書巻38)
  • 岳以醜奴所乘馬及寶劍『金帯』賞崇。(周書巻16列伝8)
  • 太祖又解所服『金帯』(周書巻18列伝10)
  • 武性貪吝,其為大司寇也,在庫有萬釘『金帯』,當時寶之,武因入庫,乃取以歸。主者白晉公護,以武勳,不彰其過,因而賜之。(周書巻19列伝11)
  • 太祖乃賜所乘馬及『金帯』床帳衣被等,并雜彩二千匹,拜大將軍。(周書巻25列伝17)
  • 賞真珠『金帯』一腰、帛二百匹,授征虜將軍。(周書巻27列伝19)
  • その他もろもろ

高敖曹、『北斉皇帝』高洋が所持し、賀抜岳から侯莫陳崇に、宇文泰から王思政、韓果、陸騰、李遠などに与えている。
達奚武は萬釘金帶を宝物庫から盗んで、後に宇文護から与えられている。

北魏以降の歴史上の並み居る貴人、政治家、重要人物たちは常に金帯を身に着けているのだ。

さらに南史巻80列伝70によれば
景服紫紬褶,上加『金帯』,與其偽儀同陳慶、索超世等西向坐。

中国の歴史が絶対に許さない人物ベスト10に入りそうな男、侯景もまた金帯を身に着けている。

さらに重要な場面で金帯は登場する。

二年,加太傅,仍總管。及尉遲迥舉兵,穆子榮欲應之。穆弗聽曰:「周德既衰,愚智共悉。天時若此,吾豈能違天。」乃遣使謁隋文帝,并上『十三環金帶』,蓋天子之服也,以微申其意。(周書巻30列伝22)

大象二年、西暦580年。
「北周」末期、天下分け目の大決戦が行われようとしていた。
東の尉遅迥と西の楊堅。
まさに国を二分する戦い。
勝った方が勝者として歴史に名を刻み、敗者は永遠に消えることのない汚名とともにその生を終える。
そんな中、「周王朝」の重臣重鎮たちがどちらにつくのかが重要な局面となった。
そして重臣李穆は楊堅についた。
李穆は楊堅に使者を送ると同時にあるものを届けさせた。
『十三環金帶』を。
この李穆が楊堅についたことが勝敗を分けたのかどうかはわからないが、一大決戦はあっけなく終わった。
古今東西、天下分け目の戦いは意外とあっさり終わる運命なのだろうか。
尉遅迥が兵を起こしてから敗れるまでわずか68日であった。
そう、勝者は楊堅。
やがて歴史に登場する『隋』。その誕生前夜の話である。

さあ、この歴史的局面に登場する『十三環金帶』。
なんだろう?
しかも史書はこう言っている。
『蓋天子之服也』
十三環金帶は『天子の服』だと。

えっ!???
いつから天子の服制に十三環金帶が入ったの?
だって秦、前漢、後漢、三国志の時代の皇帝、天子は十三環金帶なんてしてないでしょ?
金のベルトをした中華皇帝っていたっけ??
どうなってるの?
なぜか史書は詳細に、雄弁に語ってくれない。
ゆえにだれもわからない。

だが『十三』という数字が重要なのはわかる。
なぜか?
それはこの後『唐』の時代にも出てくるからだ。

唐時代の金帯・『十三』・新羅

それは「新唐書 志第14 車服」のなかに記載されている。

其後以紫為三品之服,金玉帶銙『十三』;緋為四品之服,金帶銙十一;淺緋為五品之服,金帶銙十;深綠為六品之服,淺綠為七品之服,皆銀帶銙九;深青為八品之服,淺青為九品之服,皆鍮石帶銙八;黃為流外官及庶人之服,銅鐵帶銙七。

三品以上の官位には金、玉で作った帯をし、銙が『十三』であると。
最高の官位の帯金具は十三なのだ。
逆に言えば官位を超える数の銙帯をしてはいけないことになっている。

これを見てもわかるように、帯、ベルトは身分制度を表す指標になっている。
他の装身具、ネックレスやイヤリング、指輪よりも重要な指標に。

そして偶然にも最高の数字は13なのだ。
隋初代皇帝楊堅も、唐も、突厥も、そして新羅も。

13がなぜ「聖数」なのは今となってはだれもわからない。
だが当時間違いなく13は特別で、13の金帯、金ベルトを所持しているものはその人物が他と隔絶した地位にあったことは確かだ。

しかしなぜだろう?
なぜ草原世界の制度が中華王朝の服飾制度になったんだろう?
歴史の流れを見れば『唐』という大王朝は、未熟未開の草原世界の服飾制度を取り入れたことになる。
なぜ?
これは文明の後退、退歩ではないのだろうか?
大丈夫なのかな。

さて新羅に戻ろう。

これまで見たようにこの13の金帯を所持していた皇南大塚の北墳の被葬者、そして女性は、極めて地位が高かったように思える。
もしかすると南墳の男王よりも。
この『女性』が社会的にも、政治的にも重要な役割を果たしたというのは頭の隅に入れておこう。
今後、重要な場面に必ず女性が登場するのだから。

参照 Gold Crowns of Silla

皇南大塚、北墳出土。

参照 Gold Crowns of Silla

天馬塚出土品。この被葬者もまた十三の銙帯を所持していた。

では皇南大塚の南墳について語る価値はないのであろうか?
もちろん、そうではない。

この南墳から「ある傑作」が出土している。
それはなぜ新羅が草原世界の、遊牧世界の、服飾制度や『文明』を取り入れたかがシンプルにわかるものである。

当時の新羅人は王や貴人を金で覆うことに価値を見出していた。
頭、耳、首、手、指、腰、足に。

しかし、「人」以外にも金で覆うことに価値を見出していたものがある。
唯一、人以外に金色の存在を許したもの、
それが『馬』だ。

この馬が身にまとう金色の『馬具』を彼らは墓に入れた。
当時の彼らはこう思ったのだ。
『死後の世界も馬と共に』と。

そして皇南大塚、南墳の馬具はある特別なしつらえをしている。
どんなふうに?
見てみようではないか。『世界最高の馬具』を。

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