典馬の続き
前回の最後、話がずれてしまった。
『典馬』に戻ろう。
典馬の出典は『魏書』に二箇所、『北斉書』に一箇所、そしてその次が『日本書紀』に一箇所出てくるのみなのだ。
あらゆる文字情報の中でこの三書しか記載がない。
これは極めて異例なことでもっと真剣に向き合うべき問題なのだ。
日本書紀の編纂者たちは中国古典の中からその「表現」を「言葉」を「文字」を借用している。
しかし『典馬』の記述にあたって、わざわざ『魏書』『北斉書』から、ミジンコのように小さい表現「典馬」を抜き出したとは考えられない。
この書紀の原典が高句麗にあったのか、新羅にあったのか、倭にあったのかはわからないが、確実なのは『典馬』という言葉、文字が『彼らの世界』に当時当世、存在していたという事実だ。
日常にナチュラルに存在していたのだ。
倭の中に、新羅の中に、高句麗の中に。
そして魏書、北斉書、日本書紀の中にも。
北魏、北斉、『倭』。
このような関係性で歴史を見なくてはならない。
何も無理やりこじつけているのではない。彼らはみな共通して『左衽国家』なのだから。
400年代の倭を語るときに人々は南朝との関りで『倭』を位置付ける。
中華正統王朝、南朝。確かに遣使の記録が双方の文字史料に残されている。
そして南朝「宋」から官爵を受けたことで倭が中華世界から冊封を受けたとし、その官号をもって国際的位置付けを測ろうとする。
間違いではない。だがその世界線は実際には微弱だ。
現実の世界に何も影響を及ぼさなかった。
400年代の倭の誰かが「右衽」だっただろうか、倭は「文字」を埴輪に刻んだのだろうか、律令政治は開始されたのだろうか、『天皇』は馬に乗らなかったのだろうか、そのいずれも「NO」だ。
『天皇』自ら馬に乗り、弓を引き、『武』を発動する。
同様に『北魏皇帝』も『北斉皇帝』も自ら馬に乗り、弓を引き、『武』を発動している。
倭の400年代を、そしてそれ以降を語るには『南』ではない、『北』が必要なのだ。
後ほど語ろう。『北』を。
そして『五胡』を。
日本書紀における400年代の馬の記載④
あと少しなのでさっさと終わらせよう。
⑭雄略紀
於是、百濟王、聞日本諸將、緣小事有隙、乃使人於韓子宿禰等曰「欲觀國堺。請、垂降臨。」是以、韓子宿禰等並轡而往、及至於河、大磐宿禰飲馬於河。是時、韓子宿禰、從後而射大磐宿禰鞍几後橋。大磐宿禰、愕然反視、射墮韓子宿禰、於中流而死。是三臣、由前相競、行亂於道、不及百濟王宮而却還矣。
朝鮮半島での軍事行動時、倭の将たちが仲間割れして、お互いに弓で撃ち合う話。
⑮雄略紀
秋七月壬辰朔、河內國言「飛鳥戸郡人・田邊史伯孫女者、古市郡人・書首加龍之妻也。伯孫、聞女産兒、往賀聟家而月夜還、於蓬蔂丘譽田陵下蓬蔂、此云伊致寐姑、逢騎赤駿者、其馬時濩略而龍翥、欻聳擢而鴻驚、異體峯生、殊相逸發。伯孫、就視而心欲之、乃鞭所乘驄馬、齊頭並轡、爾乃、赤駿超攄絶於埃塵、驅騖迅於滅沒。於是、驄馬後而怠足、不可復追。其乘駿者、知伯孫所欲、仍停換馬、相辭取別。伯孫、得駿甚歡、驟而入廐、解鞍秣馬眠之。其明旦、赤駿變爲土馬。伯孫心異之、還覓譽田陵、乃見驄馬在於土馬之間、取代而置所換土馬也。」
おそらく何も考えずに日本書紀の馬の話と言えば、多くの人はこの記述を思い描くだろう。
驄馬、つまり「白馬」と赤駿、「赤馬」を交換したのだが、寝て起きると交換した赤馬は埴輪に、そして白馬は誉田陵、伝応神天皇陵の埴輪の間に立っていたという話。
意味はわからないが、とりあえず応神陵には『馬の埴輪』が大量にあったのだろう、築造当時は。
日本第二位の古墳には『馬』が必要なのだ。どうしても。
⑯雄略紀
十三年春三月、狹穗彥玄孫齒田根命、竊姧采女山邊小嶋子。天皇聞、以齒田根命、收付於物部目大連而使責讓。齒田根命、以馬八匹・大刀八口、秡除罪過
歯田根命が罪を償うために馬八匹・大刀八口を提出している。
馬を賠償として支払うというのは北方ユーラシアの文化では長きに渡って行われてきたことでもある。
例えば魏書、失韋伝に
「其國少竊盜,盜一征三,殺人者責馬三百匹。」
その国には窃盗が少なく、盗みには三倍にして返させ、殺人者には馬300匹を払わす。
隋書、突厥伝に
「鬥傷人目者償之以女,無女則輸婦財,折支體以輸馬,盜者則償贓十倍。」
目を傷つければ女を持って償わせ、女がいなければ妻の財を持って支払い、腕を折ってしまった場合、馬で償わせる。盗んだものはその対象の10倍支払わなければならない。
といった感じで、これはこのあとモンゴルの時代も、そしてそれが終わってからも続く。
北方ユーラシア文化では馬は最高の『財貨』としてみなされ、それは賠償についても適応される。
歯田根命が罪を償うために馬八匹を提出しているのはそれと同じ世界観、価値観で考えるべきことなのだ。
⑰雄略紀
秋九月、木工韋那部眞根、以石爲質、揮斧斲材、終日斲之、不誤傷刃。天皇、遊詣其所而怪問曰「恆不誤中石耶。」眞根答曰「竟不誤矣。」乃喚集采女、使脱衣裙而著犢鼻、露所相撲。於是眞根、暫停、仰視而斲、不覺手誤傷刃。天皇因嘖讓曰「何處奴。不畏朕、用不貞心、妄輙輕答。」仍付物部、使刑於野。爰有同伴巧者、歎惜眞根而作歌曰、
婀拕羅斯枳 偉儺謎能陀倶彌 柯該志須彌儺皤 旨我那稽麼 拕例柯々該武預 婀拕羅須彌儺皤
天皇聞是歌、反生悔惜、喟然頽歎曰「幾失人哉。」乃以赦使、乘於甲斐黑駒、馳詣刑所、止而赦之。用解徽纒、復作歌曰、
農播拕磨能 柯彼能矩盧古磨 矩羅枳制播 伊能致志儺磨志 柯彼能倶盧古磨
雄略紀で一二を争うひどい話。
新羅王から送られてきた木工職人集団の猪名部の後裔、猪名部真根が石を台にして斧で木材を切っていた。
彼は終日、木を切っていたが一度たりともミスすることなく、斧の刃を石にぶつけることはなかった。
そこへなぜか雄略が登場して言う。
「一度でも誤ることはないのか?」
真根は答える。
「決して誤ることはありません。」
そこで雄略は采女を招集し、衣服を脱がせ、ふんどしを着けさせ、よく見える場所で相撲を取らせた。
鬼神、雄略。
始め真根は余裕を持って木を切っていたが、あまりにシュールな状況プラスおそらくおっぱいを見てしまったのだろう、わずかばかり手元が狂い、刃が石にぶつかってしまった。
雄略が宣告する。
「死刑」
そしてまさに死刑が執行されるその時、同僚の職人が嘆き歌を詠みあげた。
「あたらしき 猪名部のたくみ かけし墨縄 しがねけば だれかかけんよ あたら墨縄」
雄略はこの歌を聞き、深く後悔し嘆いた。「よき人を失うとこであった」。
鬼神。
そして急いで放免の使者を『甲斐の黒駒』に乗せ刑所に走らせた。
結果はギリ政府。
同僚はまた歌を詠みあがて
「甲斐の黒駒に鞍を乗せる手間を取っていたら間に合わなかっただろう、サンキュー黒駒」
なぜ「日本書紀」が現代で人気がないのかよくわかる記事。
価値観が共有できない。
しかし後半の記述は非常に重要なので触れざるを得ない。
どこが重要なのか?
もちろん一つしかない。『甲斐の黒駒』だ。
ここでは甲斐の黒駒は駿馬の象徴ように記載されている。
そして実際に甲斐の馬は名馬だったのだろう。
この話から1000年後の後、『甲斐の武田』が『騎馬軍』を形成するのは決して偶然ではない。
馬は著しい『限定性』を持っている。
馬が『生産』できる条件は決まっているのだ。
倭に馬が最初に入ってきた時、当然ながら『すべて輸入馬』であった。
しかしわずか70年後には『甲斐の黒駒』を生み出すまでに生産体制を整えている。
もちろんこの偉業は世界史に例を見ない偉業中の偉業である。
だが誰も称賛しない、なぜ?
⑱雄略紀
廿三年夏四月、百濟文斤王、薨。天王、以昆支王五子中第二末多王・幼年聰明、勅喚內裏、親撫頭面、誡勅慇懃、使王其國、仍賜兵器、幷遣筑紫國軍士五百人、衞送於國、是爲東城王。是歲、百濟調賦、益於常例。筑紫安致臣・馬飼臣等、率船師以擊高麗。
23年4月、百済の文斤王が死んだ。『天王』は昆支王の五人の子の中で、二番目の末多王が幼年ながら聡明ということで内裏に予備、頭を撫でその国の王とされた。
兵器を与え、筑紫の国の兵500人を付き添わせ国に返した。これが東城王である。
この年、百済の調はいつもより多かった。
筑紫の安致臣・馬飼臣等は船軍を率いて高麗を討った。
情報量が多い。
まず天皇の400年代の正式名称は『天王』であったこと。
百濟新撰云「辛丑年、蓋鹵王、遣弟昆支君向大倭侍『天王』、以脩兄王之好也。」(雄略紀)
これは『倭』がどのような世界を目指していたかわかる重要なキーワードとなっている。
決して彼らは『中華世界』という限定した王『皇帝』を目指してはいなかった。
むしろ『中華』を超えた新しい世界を目指していたことになる。
後ほど語ろう。
中国で『皇帝』ではなく『天王』と名乗った君主たちを。
そして相変わらず親百済の記載が続く。
このような記事を読めば100人中100人が倭は親百済だったと思うだろう。
百済と倭が親密な関係であれば百済王の冠にはヒスイの勾玉があるはずだし、彼らの墳墓には倭の墳墓と同じように装飾馬具を入れるべきなのだ。
しかし現実にはない。
一体どっちが正しいのか、正史か、考古資料か。
おそらくどっちも正しいのだろう。
外交ルートのには二つの道があった。百済ともう一つと。
それらは当時の政治主催者や世界情勢によって外交の結びつきに強弱があったのだろう。
書紀は一貫して百済押しという構成を取っているし、雄略は間違いなく親百済を指向しているが。
だが彼以外はどうだったのだろう?
馬を追おう。
馬を見れば少しだけだが歴史を違った視点から見せてくれることになる。
馬飼臣について語るの忘れてた。
これはおそらく船で馬を半島まで運んだのだろう。
この後、数十年後の欽明紀にはなぜか百済は馬が足りないとして倭に馬を要求してくる。
『又復海表諸國甚乏弓馬、自古迄今受之天皇以禦强敵。伏願、天慈多貺弓馬。』
はて、百済はなぜ馬が足りないと言ってくるんだろう?朝鮮半島国家なのに。
多くの人は勘違いしている。
馬は朝鮮半島でも生産するのが適してるとは言えないことを。
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