日本書紀における400年代の馬の記載③
⑪雄略紀
冬十月辛未朔癸酉、幸于吉野宮。丙子、幸御馬瀬、命虞人縱獵、凌重巘赴長莽、未及移影、獮什七八、毎獵大獲、鳥獸將盡、遂旋憩乎林泉、相羊乎藪澤、息行夫展車馬、問群臣曰「獵場之樂、使膳夫割鮮。何與自割。」群臣忽莫能對、於是天皇大怒、拔刀斬御者大津馬飼。是日車駕至自吉野宮、國內居民咸皆振怖。
吉野の御馬瀬という場所で狩猟をした。狩猟は大成果を上げ、雄略は群臣に問う、「なんか作ってくれ」と。だが誰も答えられない。そこで雄略は激怒し、大津馬飼を殺している。
この馬に乗り、狩猟する君主が暴君だという記述は300年代400年代500年代と変わらず中華史書にたくさん記載されている。彼らはいずれも『中国人』、『漢人』ではない。
その意味では雄略も含め400年代の倭王がすこぶる荒ぶっているのは、彼らがはっきりと世界の潮流の中にいたことの証明にもなるだろう。
ここでは『大津馬飼』がとばっちりを受けて殺されている。
最初の『河内飼部』は入れ墨が匂うと神に言われてるし、『倭飼部』は嘘をつき讒言している、『大津馬飼』もすぐに殺されている。
いかにも馬飼、飼部は卑賤で立場が弱いことを強調している。
⑫雄略紀
四年春二月、天皇射獵於葛城山、忽見長人、來望丹谷、面貌容儀相似天皇。天皇、知是神、猶故問曰「何處公也。」長人對曰「現人之神。先稱王諱、然後應噵。」天皇答曰「朕是幼武尊也。」長人次稱曰「僕是一事主神也。」遂與盤于遊田、驅逐一鹿、相辭發箭、竝轡馳騁、言詞恭恪、有若逢仙。於是、日晩田罷、神侍送天皇、至來目水。是時、百姓咸言「有德天皇也。」
雄略は葛城山で狩猟をした。すると背の高い、雄略そっくりの神が現れた。雄略は問う、「どちらの公か」。
神は答える「あらびと神である。まず王の名を先に名乗られよ。そのあとに言おう。」
雄略は答える「わかたけるのみことである」と。神は答える「一事主神である」と。
そして共に狩りを楽しみ、一匹の鹿を追い、矢を放つのを譲り合い、共に轡を並べて馬を走らせた。
人々は言う。「有德天皇也。」
意味不明。しかし日本における「胡の世界」の古層が垣間見える。
狩猟、神、鹿、馬、弓、矢、それらが導く答え、すなわち「有徳」。
⑬雄略紀
八年春二月、遣身狹村主靑・檜隈民使博德、使於吳國。自天皇卽位至于是歲、新羅國背誕、苞苴不入於今八年、而大懼中國之心、脩好於高麗。由是、高麗王、遣精兵一百人守新羅。有頃、高麗軍士一人、取假歸國、時以新羅人爲典馬(典馬、此云于麻柯毗)而顧謂之曰「汝國爲吾國所破、非久矣。」(一本云「汝國果成吾士、非久矣。」)其典馬、聞之、陽患其腹退而在後、遂逃入國、說其所語。
雄略が即位してから新羅は背き朝貢してこなかった。中国の心を恐れ高麗と通じた。高麗王は精兵100人をつけ新羅を守らした。しばらくして高麗軍の一人の兵が休暇を取り帰国することになった。その時新羅人を典馬(典馬、これウマカイという)にし、ひそかに言った。「汝の国は我が国のために破られるだろう」
典馬はそれを聞くと、腹が痛くなったと偽り逃げ、国に入るとその話を伝えた。
日本書紀は他の箇所でもそうだが日本の事を「中国」だと言っている。真ん中の国だと。
お察しください。
だがここで重要なのはそこではない。
『典馬』のことだ。
典馬、此云于麻柯毗。
典馬は和訳で「うまかい」だと訓読みさせている。
この記述は途方もなく重要なことなのだ。
なぜならこの『典馬』。『史記』、『漢書』、『後漢書』、『三国志』などの歴史書にまったく出てこない漢字になるからだ。
日本書紀の著述者たちは当代最高の知識人たちである。
彼らは当然中国史書や五経などの書物に精読精通していただろう。
しかしそれらの書物には『典馬』の記載がない。
では『典馬』の記載が初めて見えるのはどこだろうか?
それは『魏書』になる。
典馬
魏書の中にある、
子安都,襲爵。顯祖時,為典馬令。<魏書列伝第14長孫肥伝>
この『典馬』が中国史料において初出となる。
長孫肥の子が長孫翰でその弟が長孫受興。そして長孫受興の子が長孫安都。
顯祖、献文帝、北魏第五代皇帝、拓跋弘の時、典馬令となった。
もう一つ『典馬』は魏書に出てくる。
奚斤,代人也,世『典馬』牧。父簞,有寵於昭成皇帝。時國有良馬曰「騧騮」,一夜忽失,求之不得。後知南部大人劉庫仁所盜,養於窟室。簞聞而馳往取馬,庫仁以國甥恃寵,慚而逆擊簞。簞捽其發落,傷其一乳。及苻堅使庫仁與衛辰分領國部,簞懼,將家竄於民間。庫仁求之急,簞遂西奔衛辰。及太祖滅衛辰,簞晚乃得歸,故名位後於舊臣。斤機敏,有識度。登國初,與長孫肥等俱統禁兵。後以斤為侍郎,親近左右。從破慕容寶於參合。皇始初,從征中原,以斤為征東長史,拜越騎校尉,典宿衛禁旅。車駕還京師,博陵、勃海、章武諸郡,群盜並起,所在屯聚,拒害長吏。斤與略陽公元遵等率山東諸軍討平之。從征高車諸部,大破之。又破庫狄、宥連部,徙其別部諸落於塞南。又進擊侯莫陳部,俘虜獲雜畜十餘萬,至大峨穀,置戍而還。遷都水使者,出為晉兵將軍,幽州刺史,賜爵山陽侯。<魏書列伝第17 奚斤伝>
北魏創成期から極めて重要な人物となる奚斤。
彼は代々『典馬』牧なのだ。
彼は代々うまかいなのだ。
その経歴はすさまじく、父の奚簞の話から拓跋什翼犍、劉庫仁、劉衛辰、そして苻堅という歴史上のスーパースターたちが登場する。
奚斤の代においても慕容宝との伝説の「参合陂の戦い」に参加し、高車、柔然、という漠北の雄と戦い、南においては南朝「宋」と、西では赫連昌の『夏』、沮渠牧犍の『北涼』、東では『北燕』の壊滅まですべての戦いに従軍している、文字通り「北魏の生きる伝説」と言える存在だ。
北魏華北統一の生き字引であり、生き証人でもある。
彼はすべての戦いに関わり、すべての歴史をその目で見てきた。
強戦士、軍人、軍将、そして『典馬』、うまかいでもあるのだ。
さらに『典馬』の出典を追う。
次は『北斉書』に記載があり、
又有代人庫狄伏連,字仲山,少以武幹事爾朱榮,至直閣將軍。後從高祖建義,賜爵蛇丘男。世宗輔政,遷武衛將軍。天保初,儀同三司。四年,除鄭州刺史,尋加開府。伏連質朴,勤於公事。直衛官闕,曉夕不離帝所,以此見知。鄙吝愚狠,無治民政術。及居州任,專事聚斂。性又嚴酷,不識士流。開府參軍多是衣冠士族,伏連加以捶撻,逼遣築墻。武平中,封宜都郡王,除領軍大將軍。尋與瑯琊王儼殺和士開,伏誅。伏連家口有百數,盛夏之日,料以倉料二升,不給鹽菜,常有饑色。冬至之日,親表稱賀,其妻為設豆餅。伏連問此豆因何而得,妻對向於食馬豆中分減充用,伏連大怒,『典馬』、掌食之人並加杖罰,積年賜物,藏在別庫,遣侍婢一人專掌管籥。每入庫檢閱,必語妻子云:「此是官物,不得輒用。」至是薄錄,並歸天府。<北斉書巻20列伝第12>
厙狄伏連という鮮卑人で、最初に爾朱栄に仕え、その後は高歓、高澄と北魏の東半分である東魏に仕え、その後はそのまま北斉へと仕える。
彼は質実素朴であり、公事に勤勉であり、朝夕と帝の側を離れなかった。
しかし民衆の統治は下手で統治する術を持たず、残忍で、収奪を行い、その過酷さは士大夫にまで及んだ。
琅邪王高儼に従い和士開を殺した。
伏連の家の使用人は100人を数えたが、彼らには粗末なものしか与えなかった。
冬至の日、伏連の妻が豆餅を作ったが、伏連はその豆がどこから手に入れたと詰問すると、妻は馬の飼料である豆を減らしたと答える。
伏連は激怒して『典馬』と食事係に杖で罰を与えた。
食事係と並列して表記にしているので「典馬」も『ただの』馬の飼養人に感じる。
それともどうだろう?
この「典馬」も庫狄伏連の兵士、軍人の意はないだろうか?
せっかく庫狄伏連の列伝に触れる機会を持ったので少し「胡族の政体」に述べよう。
このように皇帝、君主、政治主催者に実直でありながら、民衆の統治を収奪と暴力で行うという記載は他の胡族の列伝にも多く記載されている。
これは種明かしをしてしまうと、北魏をはじめ多くの胡族国家と中国人の伝統的な中華国家の基本的な仕組みが違うからになる。
胡族国家は君主と家臣が「私的結合」の関係にあり、州や郡県の民衆の統治も自己の所有物、所有者とする意識になっている。
一方中華国家は『公』の概念に基づいて国家を運営しているので、皇帝個人に尽くすのではなく、あくまで朝廷、社稷という、より『公的』な世界を構築していくことになる。当然、州や郡県の統治も『私』ではなく『公』の概念に基づいて運営していくことになる。
どちらが正しいというわけではなく、長い時間をかけて到達した二つの「正しさ」、二つの「文明」として捉えなければならない。
中華には『私的拡張性の無限体』としての国家はDNAに存在せず、常に『公』、そして公の概念に基づく『法』の統治しかないため、中国人は『胡族の政体』を理解できず、中国史書において常に彼らを罵倒する表現になっている。
北魏などの胡族主催の国家は「胡族統治」と「華族統治」の二つの、二重の、二元的な「統治」を行っているのだ。
現代的な認識だと中国人の方が「正しく」感じるだろう。
『公』、『法』、『法治』、まさしく現代の法家出身の政治家が連呼している言葉である。
しかし、かつて『日本』はそうでなかった。
『一私家』の無限の拡張性を持って『国家』とする時期が長い間あった。
かつて鎌倉幕府が設立し各地に東国の出身の武士が統治者として派遣された時、『上記の問題』とまったく同じ現象が起きた。
すなわち東国出身の武士は各地の、特に西日本の地において『収奪的』『暴力的』と表現される行いをした。
彼らは別に何か変わったことをしたわけではなく、東国においてのセオリーを実行したに過ぎない。
しかし長い間、律令体制下にあった西国人は彼らを野蛮な収奪者としてしか認識できなかったのだ。
何も1000年前のことを言わずとも、わずか百数十年前までは『私的国家』、『徳川』幕府が『日本』にはあったではないか。
なにゆえ『日本』の中に『華』の政体、「公」、「法」、「律令」。
『胡』の政体、「私」「武」そして「馬」が存在しているのか?
そしてなぜ日本の『東』にはより強い『胡の世界』が現れるのか?
カギを握るのは、もうお分かりだろう。
アレだ。
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