馬を追う 04 日本書紀における400年代の馬の記載②

目次

日本書紀における400年代の馬の記載②

続いて日本書紀の中で『馬』が出てくるのは允恭紀になる。

⑦允恭紀
初皇后隨母在家、獨遊苑中、時闘鶏国造、從傍徑行之、乘馬而莅籬、謂皇后嘲之曰「能作園乎、汝者也。」汝、此云那鼻苔也。且曰「壓乞、戸母、其蘭一莖焉。」壓乞、此云異提。戸母、此云覩自。皇后則採一根蘭、與於乘馬者、因以、問曰「何用求蘭耶。」乘馬者對曰「行山撥蠛也。」蠛、此云摩愚那岐。時皇后、結之意裏乘馬者辭旡禮、卽謂之曰「首也、余不忘矣。」

是後、皇后登祚之年、覓乘馬乞蘭者而數昔日之罪以欲殺、爰乞蘭者、顙搶地叩頭曰「臣之罪實當萬死。然當其日、不知貴者。」於是皇后、赦死刑、貶其姓謂稻置。

允恭の皇后である忍坂大中姬が皇后の地位になる前の話である。
彼女が一人で苑中にいるとき、闘鶏国造が乗馬したまま語りかけた。
「なんとか」
「かんとか」
皇后はそのやりとりの何かが不愉快に思われ、「私は忘れまい」と言われた。

その後、皇后に地位に上ったところ、昔の非礼を働いた者を探し殺そうとした。その者は頭を下げ、「臣の罪は万死に値する。しかし、あの日はこのような尊い方だと知りませんでした。
皇后は死刑を赦したが、その姓を稲置として降格させた。

この話、おそらく会話の中身よりも、その『形式』が問題になってるのではないだろうか?
さかんに「乗馬」、「乗馬者」という言葉が繰り返されている。
『馬上』から語りかけた闘鶏国造だが、その語りかけた相手が後に皇后に地位になるとは思いもしなかったのだろう。
『立場』が逆転にしてしまったために、『問題』となってしまった。
逆に、もし、立場が逆転してしまわなかった場合、『問題』とはならなかった。

では『問題』の原因はなんであろう?
それは『馬に乗るものは、実際の、現実の、空間においても尊卑の序列上、上の者になる』ということだろう。
馬上の上、乗馬する者、それらは現実の、社会空間において上位の者なのだ。
馬を『畜』だとして扱ってはいけない。
馬を『貴』なるものとして扱わなければ話が見えてこない。

ところで闘鶏国、つけの国ってどこだろう?

この後雄略紀において闘鶏御田という人物が出てくる。

冬十月癸酉朔壬午、天皇、命木工闘鶏御田(一本云「猪名部御田」蓋誤也)始起樓閣。於是、御田登樓、疾走四面、有若飛行、時有伊勢采女、仰觀樓上、怪彼疾行、顚仆於庭、覆所擎饌。

話としては、大工職人の闘鶏御田がアクロバティックに楼閣を作っているのを見て伊勢の采女が盆をひっくり返すという話なのだが、ここで書紀はわざわざ別伝の猪名部御田という名を否定している。

猪名部の日本書紀に初出は応神紀にある。

當是時、新羅調使共宿武庫、爰於新羅停、忽失火、卽引之及于聚船而多船見焚。由是責新羅人、新羅王聞之、讋然大驚、乃貢能匠者、是猪名部等之始祖也。

500隻もの船が集まっている港で突然火事が発生。この時、新羅の使者もたまたま停泊していた。
犯人は当然ド悪「新羅」っぽい。
新羅人がガン詰めされて責任を負わされる。新羅王はその話を聞いて卒倒し、能力の高い匠を送ってきた。
彼らが後の猪名部の始祖である。

この応神紀、允恭紀、雄略紀の話を総合すると
新羅、猪名部、闘鶏が繋がってくる。
猪名部の始祖は新羅の技術者であり、彼らは闘鶏とも言われていたのではないか?
闘鶏国造を最終的に土下座して頭を地につけさせているのも、間接的に新羅に頭を下げさせているのと同じなのだろう。
それは書紀の構成上、必要なことだったのだろう。

⑧允恭紀
五年秋七月丙子朔己丑、地震。先是、命葛城襲津彥之孫玉田宿禰、主瑞齒別天皇之殯。則當地震夕、遣尾張連吾襲、察殯宮之消息、時諸人悉聚無闕、唯玉田宿禰無之也。吾襲奏言「殯宮大夫玉田宿禰、非見殯所。」則亦遣吾襲於葛城、令視玉田宿禰、是日、玉田宿禰、方集男女而酒宴焉。吾襲、舉狀、具告玉田宿禰。宿禰則畏有事、以馬一匹授吾襲爲禮幣、乃密遮吾襲而殺于道路、卽逃隱武内宿禰之墓域。

五年秋、玉田宿禰に先帝反正の殯に命じた。しかし殯には玉田宿禰はおらず、尾張連吾襲が探すことに。
玉田宿禰は葛城におり、男女集めて酒宴をしていた。吾襲は玉田宿禰に事情を述べる。
ヤバイと思った玉田宿禰は吾襲に贈り物、口止め料、ワイロとして『馬一匹』を贈ることに。
しかし実際はそのあと道路にて吾襲を殺し、武内宿禰の墓域に逃げて隠れることになる。

ここでは幣礼、へいれい、として『馬一匹』が記載されている。
米でも麦でも、絹でも、黄金でもない。幣礼として『馬』なのだ。

⑨允恭紀
卌二年春正月乙亥朔戊子、天皇崩、時年若干。於是新羅王、聞天皇既崩而驚愁之、貢上調船八十艘及種々樂人八十、是泊對馬而大哭、到筑紫亦大哭、泊于難波津則皆素服之、悉捧御調且張種々樂器、自難波至于京、或哭泣或儛歌、遂參會於殯宮也。

冬十一月、新羅弔使等、喪禮既闋而還之。爰新羅人、恆愛京城傍耳成山・畝傍山、則到琴引坂、顧之曰「宇泥咩巴椰、彌々巴椰。」是未習風俗之言語、故訛畝傍山謂宇泥咩、訛耳成山謂瀰々耳。時、倭飼部、從新羅人聞是辭而疑之以爲、新羅人通采女耳、乃返之啓于大泊瀬皇子。皇子則悉禁固新羅使者而推問、時新羅使者啓之曰「無犯采女。唯愛京傍之兩山而言耳。」則知虛言、皆原之。於是新羅人大恨、更減貢上之物色及船數。

42年正月、允恭天皇が崩御された。この時、新羅王は天皇の崩御を聞いて驚き悲しみ、多くの船と楽人などを献上した。人々は対馬に着き、大泣きし、筑紫に着いてまた泣いた。

11月、新羅の使者は帰国するとこになった。彼らは京の耳成山・畝傍山を愛していた。琴引坂に着いたとき振り返り「うねめはや、みみはや」と言った。新羅人は日本語が上手ではなく訛ったしまったので、「うねびやま」を「うねめ」、「みみなりやま」を「みみ」と言ったのである。
その時、倭飼部は新羅人に従っていたがこれを聞き、「采女を犯した」と聞き間違った。
そしてこれを大泊瀬皇子、後の雄略天皇に告げる。
王子は新羅の使者をガン詰めしたが彼らは言う「采女を犯してません。ただ京の二つの山を愛でて言っただけです。」
こうして潔白が認められ、大泊瀬皇子は許された。
しかし新羅の恨みは深く、貢物と船の数はこの後減らした。

わざわざ訳すのもめんどくさいぐらい「ひどい話」。
でもやらざるを得ない。
『倭飼部』が出てくるので。

まずこの允恭紀において極めて特徴的なのは、新羅の描き方が唯一日本書紀の構成の中で違うことにある。
允恭の崩御の際に新羅人、新羅王は悲しみ嘆いている。
なぜかは分からないが、『允恭紀』だけ新羅が友好国であると書いてある。
崩御以外にも、

三年春正月辛酉朔、遺使、求良醫於新羅。秋八月、醫至自新羅、則令治天皇病、未經幾時病已差也。天皇歡之、厚賞醫以歸于國。

新羅から医者を求め、允恭の病を治している。

なぜだろう?
分からないけど、地上の考古遺物「文字史料」ではなく地下の考古遺物「墓の副葬品」を比較するとむしろ、この允恭紀の関係の方が新羅と倭の関係に近いのではないだろうか?
彼らは『共に』お互いを必要としたのではないだろうか?
多分だけど。たぶーだけど。

『馬』に戻ろう。
ここでは『倭飼部』、『やまとのうまかいべ』と出ている。
また不思議となぜか新羅人と同伴している。
おもしろいのはこの前は『河内飼部』、『かわちのうまかいべ』となっている点で、日本書紀はこの他のところで、『東漢』やまとのあや、『西漢』かわちのあや、と区別している。
現在でも東と西は何かしらの区分、分け目だと感じる表記にしている。
『関東』と『関西』とか。

しかし古代においては『河内』と『倭』をそれぞれ区分し『西』と『東』にしているのだ。
400年代以降急速に日本最大級の古墳を作り出す『河内』とそれ以前の大古墳の地『倭』『大和』。
それらの関係性はどうだったのだろう?
当時の人たちは明らかにそこに一線を引いていた。
『西』と『東』に。
二つの勢力は仲良しだったのか、それとも対立的だったのか、真相は分からない。
とりあえず『倭飼部』は日本書紀でこの允恭紀しか出てこないことを記しておこう。

続いて馬の記載は雄略紀になる。
⑩雄略紀
冬十月癸未朔、天皇、恨穴穗天皇曾欲以市邊押磐皇子傅國而遙付囑後事、乃使人於市邊押磐皇子、陽期狡獵、勸遊郊野曰「近江狹々城山君韓帒言『今、於近江來田綿蛟屋野、猪鹿多有。其戴角類枯樹末、其聚脚如弱木株、呼吸氣息似於朝霧。』願與皇子、孟冬作陰之月・寒風肅殺之晨、將逍遙於郊野、聊娯情以騁射。」市邊押磐皇子、乃隨馳獵。於是、大泊瀬天皇、彎弓驟馬而陽呼曰「猪有。」卽射殺市邊押磐皇子。

雄略天皇こと大泊瀬皇子が皇位継承の有力者である市辺押磐皇子を狩りに誘い出し、どさくさに紛れて殺す話。
なんと雄略は自ら馬に乗り、弓を引き絞り射殺している。
天皇がこの馬上にて弓を引くという『北族』伝統の馬上芸術、馬上技術を習得してるというのは極めて重要なこと示している。
日本が北方ユーラシア文明を受け入れて半世紀後に生まれた雄略はすでに『その世界の価値観』で生きている。
大規模狩猟にかこつけてライバルの有力者を射殺する話はテュルク、モンゴル叙事詩に多く見える。
彼らの論理においては狩猟の射殺は容認されている。
「何かしら」の証明であると彼らは考えていたのだろう。
しかし現代道徳、あるいは中華儒教の視点では雄略はただの「無法」の殺人者になってしまう。
実際に雄略紀において「太悪天皇也。」と記載されている。
しかし、別の箇所では雄略を「有德天皇也。」と記している。
おそらく中華以外の価値観において雄略の行為は『無法ではなく有法』であった可能性が高い。

そして日本書紀は雄略について悪でもあり、正義だと言っている。
なぜか『二つの基準』を示している。

大悪なのか?
有徳なのか?

どちらも正解。どちらも正しいのだ。
中華の基準で雄略の行為を測ってしまえば、「日本の歴史」も中華の基準で測ってしまうことになる。
なぜならこの数百年後、馬に乗り、弓を引き、天下を馬の上で決した者たちが登場することになるのだから。
彼らもただの『無法者』だったのかな?
そうではないだろう?

彼らもまた『彼らの法の中』で生きていたのだ。
彼らの『正しさ』の中で。

日本書紀を中華世界の基準で判断してはいけない。
もう一つの価値基準があるのだ。
『夷狄の世界』、そして『胡の世界』の基準が。

なにゆえ日本の中に『華』と『胡』が混じって出てくるのだろう?

その答えは日本は、日本こそは、『華』と『胡』が混じり合って到達した全く新しい中華、『新生中華』の誕生の光を全身に浴びて誕生した国になるからだ。

日本の中に流れる『胡』の、『夷狄』の、ルーツを勇気をもって凝視すれば、まったく別の世界が見えてくる。
今、必要なのは勇気なのだ。
かつて中華主義全盛の世にあって、自らの文化に抱える『夷狄』を『正当に』評価できなかった。
中華が上で、夷狄が下、というルールで自らを縛り、目をふさいだ。

しかし時代は変わった。
もうだれも中華に興味がない。中華文字に興味がない。
今や時代の中心は英語で英文なのだ。
Englishなのだ。

よってチャンスだ。どさくさに紛れて夷狄の世界を評価してみよう。
どうせまたすぐに中華一元主義は戻ってくるのだから。

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