日本書紀における400年代の馬の記載
さて神功皇后の征戦により降伏し、『飼部』、みまかい、となった新羅はその後、日本に『馬』を送ってきたのだろうか?
実は日本書紀によれば新羅が馬を送ってきた記述は一度も見当たらない。
なんでだろう?
それどころか、朝貢国となった新羅は典型的な『反復常無し』を絵に描いたような行動をとり続ける。
『教科書通りの悪』の行動をとり続ける。
教科書通りの悪を。
果たして馬はいつ、どのようなルートを通って、日本に登場したのだろうか?
また馬の登場は日本の社会、あるいは日本の歴史にとってどういった意味を持つのだろうか?
日本書紀の中の馬の記述を追う。
神功記においては馬の記述はこの新羅との一件のみとなる。
次に馬、うま、が現れるのは神功皇后の子、応神の代になる。
①応神記
『三年冬十月辛未朔癸酉、東蝦夷悉朝貢。卽役蝦夷而作厩坂道。』
三年冬十月、東の蝦夷がことごとく朝貢した。そこで蝦夷を使役して、厩坂道を作らせた。
馬の漢字は使用していないが、厩坂道、うまやさかみち、という言葉が出る。
この『東国』が『厩坂道』を作ったという記載は短いが非常に重要になる。なぜなら考古学が示すように400年代にはすでに『東国』に馬を生産できる『牧』の存在が確認できるからである。
日本書紀は例の如く、中華思想を援用して、東の夷狄を蝦夷という蔑称で記載している。
しかし、この『東国』と『馬』は古代史のみならず、日本史全体を通じて重要なテーマとなる。
720年の夷狄は、後に中華思想を超えて日本史にその姿を現すことになるからだ。
なぜ『馬』は『東』でなければならなかったのか?
後ほどお伝えしたい。
東国と馬の関係を。
②応神記
『十五年秋八月壬戌朔丁卯、百濟王遣阿直伎、貢良馬二匹。卽養於輕坂上厩、因以、以阿直岐令掌飼、故號其養馬之處曰厩坂也。』
十五年秋八月、百済王は阿直伎を派遣して、良馬2匹を献上した。そこで軽の坂の上の厩で飼わせた。阿直伎に飼育を管理させ、その場所の名を厩坂と名付けた。
これが倭に、日本に、『馬』が渡来した『最初の文字記録』になる。
これをもって歴史家は日本に馬が来たルートを百済に限定している。
確かに百済から贈り物として馬が来たことはあるのだろう。
三国史記にも百済から新羅へ二匹の馬を贈っている記載はある。
これは当時『馬』が外交交渉において、贈り先の相手方が喜ぶものとしての認識が相互にあったことを示している。
ではこの二匹が日本にとっての馬事文化、さらに言えば北方ユーラシア文明の移入の核心となったのだろうか?
そもそも百済では『馬』が生産できたのだろうか?
何を言ってる?
馬なんて『畜』だろうが?どこでも、いつでも、誰とでも、だ、
犬や猫のようにほうっておいても繁殖は勝手にするだろ。
そう、ぼくたちは、わたしたちは『馬』について知らない。
馬について知らないということすら知らない、『知らされない』。
文字で導く歴史空間において『馬』がいかに重要で、いかに『限定性』を持っているかは記載されない。
なぜ百済は中華文明を指向したのか?
そしてなぜ中華の文字史料は馬の記載について軽薄なのか?
全ての『根源』は一緒なのだ。
後ほどお伝えしたい。
中国で、中華中原で、馬が生産できなかったことを。
続いて馬の記載は仁徳記になる。
③仁徳記
『五十三年、新羅不朝貢。夏五月、遣上毛野君祖竹葉瀬、令問其闕貢。是道路之間獲白鹿、乃還之獻于天皇。更改日而行、俄且重遣竹葉瀬之弟田道、則詔之日「若新羅距者、舉兵擊之。」仍授精兵。新羅起兵而距之、爰新羅人日々挑戰、田道固塞而不出。時新羅軍卒一人有放于營外、則掠俘之、因問消息、對曰「有强力者、曰百衝、輕捷猛幹。毎爲軍右前鋒、故伺之擊左則敗也。」時新羅空左備右、於是田道、連精騎擊其左。新羅軍潰之、因縱兵乘之殺數百人、卽虜四邑之人民以歸焉。』
53年!、新羅は朝貢しなかった。上毛野君の祖、竹葉瀬の弟、田道を使わし、新羅を討てと、兵を授けた。
新羅との戦闘でいろいろあり、弱点である左方を『精騎』にて攻撃した。新羅人数百人を殺し、4つの村の人民を捕らえて帰ってきた。
精騎、すなわち騎馬軍になる。
これが日本書紀最初の騎馬の記載である。場所は朝鮮半島であるが。
ここでも奇妙にも、新羅、上毛野という東国、そして馬が出現している。
ところで倭軍に蹂躙された新羅は、新羅王は、なぜその王冠に、金に輝く王冠に、ヒスイの勾玉をつけていたのかな?変わった価値観なのかな、古代人は?あーそうだった、ヒスイの勾玉は新羅産だった。
次に行こう。
④履中記
『爰仲皇子畏有事、將殺太子、密興兵圍太子宮。時、平群木菟宿禰・物部大前宿禰・漢直祖阿知使主、三人啓於太子、太子不信。一云、太子醉以不起。故、三人扶太子、令乘馬而逃之。一云「大前宿禰、抱太子而乘馬。」』
仁徳の子であり次に即位する履中は皇位継承において兄弟の住吉仲皇子の対峙することになる。
仲皇子は当時、太子であった履中を殺そうと思い、密かに兵を興し、太子の宮を囲んだ。その時、三人の大臣は太子に急を告げたが、太子は信じなかった。ある伝においては太子は酔っていて起きなかったとある。
ゆえに三人は太子を馬に乗せ逃がした。ある伝によれば、大前宿禰が太子を抱いて馬に乗せたとある。
日本における乗馬の最初の記載である。
最初の乗馬の記載が天皇と絡んでいるのはおもしろい。
臣下、家臣、将軍、でもなく天皇だというは、実は重要なことなのだ。
『天皇』と『馬』。
それは日本史において切っても切れない関係となっている。
古代史においても、また日本通史においても。
時は流れ、明治という西洋、近代化、内燃機関の駆動による機械文明の受容という、三度目の衝撃、サードインパクトが訪れても、なお、時の王、明治天皇は『馬』を愛した。
西暦400年のファーストインパクトから1500年という長大な時間を過ぎてもなお、天皇は馬を知っていた。
同時に馬も、また天皇を知っていたのだ。
今、私は、天皇と畜である『馬』を並べて語った。
不遜だろうか?そうではあるまい。
天皇を語らずして『馬』は語れない。
後ほど語ろう。天皇、そして『天王』を。
⑤履中記
『秋七月己酉朔壬子、立葦田宿禰之女黑媛、爲皇妃、妃生磐坂市邊押羽皇子・御馬皇子・靑海皇女。一日、飯豐皇女。』
元年、秋七月、葦田宿禰の女、黑媛を皇妃とした。妃は磐坂市邊押羽皇子・御馬皇子・靑海皇女を生んだ。
天皇の子の名前に御馬皇子がいる。
馬の名前は、美称、尊称でもあるのだ。
この御馬皇子、後に皇位継承に絡み、正義、あるいは勝者である雄略天皇に殺されることになる。
⑥履中記
『秋九月乙酉朔壬寅、天皇狩于淡路嶋。是日、河内飼部等從駕執轡。』
天皇は淡路島で狩猟を行った。この日、河内飼部がくつわを取って従事した。
ポイントは二つ。
一つ目は天皇が自ら狩猟していること。
この後、お伝えする中国の300年代400年代の『夷狄』の皇帝たちは盛んに狩猟をしている。
そしてそのことを中国人は、中華文字は、極めて強い反対の立場を取っている。
『皇帝が狩猟することに反対』なのだ。
当たり前だが300年以前の『普通の中華皇帝』は狩猟しない。
狩猟の何が気に食わないのかよくわからないが、とにかく中国人は狩猟が大っ嫌いってことはわかる。
しかし、臣下の厳しい諫言にも関わらずやってしまうのが『夷狄の中華皇帝たち』なのだ。
そして『同じく』狩猟をやってしまうのが日本の天皇になる。
やがて日本の天皇はこの後、数百年後、中華世界に旋回していくことになる。
歴史という天体の運行のなせる業なのか。
というわけで「中華世界の王としての天皇」となると天皇自ら狩猟は行わなくなる。
変わって歴史に登場するのが、狩猟する政治主催者、『武士』となる。
これを見ると、歴史というのは時間軸をx軸に右方向に流れているのではなく、もっと大きな円の中で回転しているのがわかるだろう。
ちなみにこの『武士世界の狩猟』の意味を知らないと『魏書』における拓跋たちの狩猟の意味がまったく分からないものになってくる。
中華文字史料では『胡』の世界が表現できない。
ゆえに『魏書』の記載、例えば
壬子西廵戊午田于河西
十有一月行幸河西大校獵
十有一月西廵狩田于河西至祚山而還《魏書 帝紀第四 世祖紀上》
といった非常に簡素な記述の意味がまったく解けなくなってしまう。
田、田猟、大校獵、廵狩はすべて狩猟を意味する。
君主自ら狩猟を行っている。
だが、そこで何をしていたのか、何の意味があったのかはまったく『説明』していない。
というか『説明できない』のだ。
中華思想では。
中国史書を読むには中華教養以外の知識、世界が必要なのだ。
西暦300年以降の中華を語るには。
ポイントの二つ目は河内飼部、飼部という表現だ。
日本書紀における『飼部』の初登場は新羅を征討した時に現れる。
そして二番目が今回の河内『飼部』になる。
普通に、ストレートに解釈するならば、この『河内飼部』、新羅に近しい関係だと思えてくる。
というのも当時、馬の知識を倭人はまったく持っていなかった。
馬の生産、管理、飼育、または滋養、そして死馬となった後の肉や骨、皮の活用、さらにもっと言えば、馬の軍事行動全般に極めて『高度な』知識体系が必要であったはずである。
これを歴史家の一部の人は日本人の自助努力だという。
愛国精神のなせる業の深さを垣間見る。
しかし現実的に倭人の自助努力に答えを見つけるのは難しい。
『どこからか』馬の知識、そして馬のそのものの移入が必要なのだ。
ある人は言う。それは『加羅』だと。
しかし三国史記も朝鮮半島の史書として『三国』だとしている。
高句麗、百済、新羅だと。
加羅はそこに列挙していない。
日本書紀も書く。『三韓征伐』だと。
高句麗、百済、新羅と。
加羅は極めて『倭』と密接な関係にあったことは間違いない。
しかし、そこに『馬』を、馬事文化の源泉を求めることは間違っている。
後ほどお伝えするが、『馬』は莫大な利益を生み出す、流通市場経済にとって最高、最上の位置にあるものだ。
加羅が馬を生産し、その流通を管理できるならば、必然的に彼らは『国家』として自立する。
経済的な面、軍事的な面、それに伴う外交面においても重要な存在となるだろう。
しかし、朝鮮、日本共に、史家は加羅を国家規模にまで成熟できていなかった存在としている。
ならば、そこに『馬』の、『馬事文化』の、源泉を求めることは間違っている。
ある人は言う。馬は百済からだと。
しかし日本書紀の中で百済を『飼部』と表記している箇所はない。
それは加羅にも、任那にもない。
『飼部』と表記しているのは新羅のみなのだ。
『河内飼部』、そして『飼部』新羅。
その二つは繋がっている。
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