馬を追う 01 日本列島にかつて馬はいなかった

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日本列島にかつて馬はいなかった

惑星地球が誕生し、何千何万年と経ったのち、やがて日本列島と呼ばれる島々は大陸から分断され大海に浮かぶ孤立した陸地として存在することになった。

どれほどの時間が経ったのだろうか。
縄文時代を経て、弥生、古墳、飛鳥、奈良、平安と後世の歴史家が適当に区切った時代を時間は流れていった。

やがて源平合戦があり、鎌倉、室町と続き、戦国時代になり(おそらくここが一般的には日本史のハイライトだろう)、江戸時代が260年間続くことになる。

そして明治維新を経て、近代化、文明化、西洋化した社会は現在へと続いていることになっている。

この長大な時間の中で果たして『馬』はいつから日本列島にいたのだろうか?

実は戦前の考古学的知見では馬は元々日本列島に生息していた、あるいは縄文、弥生時代から生息していた、古墳時代なってからだ、といった様々な説が存在していた。

そんな中、『動物考古学』という科学的アプローチから歴史に迫る分野の専門家から『ある見解』が出される。
それは『馬は400年代以前にいなかった』というものだ。

縄文や弥生の遺跡から出土したと言われていた馬の骨のサンプルをより科学的なアプローチから再度検証して結果、上記の見解、「400年代以前に馬はなし」ということになった。

この『大発見』は戦後もたらされた考古学の知見の中で最も重要にして、それこそ最大級の発見になる。
歴史はすべてこの『大発見』を中心にして考えるべきなのだ。

多くの人は『馬』を勘違いしている。
馬を限りなく過少評価した存在して歴史上扱っている。

考えてみて欲しい、『馬』の存在しない源平合戦を、『馬』のいない戦国時代を。
なんと味気ないことか。
日本に『馬』が存在しなければ、歩兵と歩兵、あるいは船戦がメインとなってしまうのだ。

合戦だけじゃない。日本には『馬』なしで歴史を語ることはできないのだ。
『日本史は馬と共に歩んできた』といってもまったく過言ではない。

しかし『馬の価値』、『馬の歴史的位置づけ』は異常に低い。
低いのにはいくつか理由がある。

一つはあまりに馬がいるのが『当たり前』、『普通』なので歴史空間において『空気』のように扱っているため。

一つは明治維新後に始まった近代的な歴史学において、『近代以前の遺物』である馬を正確に評価することができなかったため。

一つは、これが最も大きい理由だと思うが、実は『中国正史』は馬について全く正確に記述していないため、になる。
中国史の中で重要とされないため、日本史においても重要視されないのだ。

中国史における馬の生産地の比定

多くの人は漫画や映画の三国志、あるいは漫画キングダムのように中国の戦闘をイメージする。

しかし中国正史には極端に戦闘シーン、バトルシーンが少ない。
これは史書の著述者が文官や史官といった文人官僚によって記載されているため、実際には戦場に出ることはなく、詳細がわからないためが一つ。
そして何より、『中華文明』の本質が「文を尊び、武を卑しい」とする考えのためでもある。

中国史を読んでいると『兵は凶事の器』とか『本当の武は戈を止めること』という記載が出てくる。これは武という漢字は『戈』と『止』の二つの文字から出来ているというアナグラム、というか文字通り言葉遊びの一種なのだが、彼らは本気で、ここが重要なことだが、本気で言っているのだ。

真の武とは戈という武器を振り回すことではない。
あえて戈と止める、納めることで真の姿、真の価値となるのだ、と。
国家間における戦争の前、国家滅亡の危機が目の間に迫りながらも、彼らは、文官は大真面目でこういう言葉を述べる。

彼らは心底、武を嫌い、武を忌避した。

そのせいなのだろうか、軍事について史書はまったく大雑把に記載しかしていない。

特に軍事の根幹でもある、『馬』の情報の記載がまったく少ない。というかほぼない。

馬がどこの場所で、どれぐらい生産できたのか、管理状態はどうなのか、軍事配備はどうなっているのか、まったく記載がない。

特に生産地の比定は壊滅的で、
『漢書』においては百官公卿表の太僕の項『邊郡六牧師菀令』の記載しかない。
辺群に六牧あったらしい。
六牧の場所はどこなのだろう?
しかしこれしか『馬』がどこで生産していたか推測できる記載がないのだ。

もはや「なぞなぞ」レベルの記載なので、読者はおのおのの想像力とやさしさと思いやりで一応の解釈を行っている。
なんだろ?史書は読者の想像にお任せするスタイルなのかな。

さらに強烈なのは『後漢書』で百官、太僕の項に「有牧師菀,皆令官,主養馬,分在河西六郡界中,中興皆省,唯漢陽有流馬菀,但以羽林郎監領」と書かれている。

河西六郡で馬を養っていたが、途中で廃止され、ただ唯一漢陽に流馬菀というのがあるのみとなった。

後漢時代に『一つだけ』しか牧がないと?
まじ????

この後の年代順の中華史書、『三国志』『晋書』も一貫して『馬』の生産地が記載がない。
『魏書』においてやっと記載がされるが、なんと一文のみ。
そしてこれも人によって解釈が異なる見解が出されるというなぞなぞなスタイルを取っている。

実は中国史書が『馬』に関して口を濁す、筆を濁すには大きな理由がある。
それは後ほど。

日本書紀における馬

このように中華史書では『馬』の取り扱いがひどい。
まるで価値のないもの、無価値のようなものとして感じるようになっている。

あれほど多くの文字、漢字を中華史書に記載しながら、馬の重要性にまったく触れていない。

文字情報の多さ=重要な事。

という方程式が成り立てば、確かに儒教思想は重要な要素なんだろう。
彼らは盛んに古典的知識に則って思想世界を形成している。
中華思想、中華的価値については多くの文字が掲載されている。

反対に記載の少なさ、文字情報の少なさは中華世界においてあまり価値がないもののように感じられる。

そのせいだろうか?

中国文字で書かれた日本の正史『日本書紀』においても馬の重要性がまったく遠ざけられている。

日本書紀を何度読んでも馬が重要な存在だと感じれる人はいない。

本来、馬が初めて来た日というは、国民が全員でパレードをしてその一頭を出迎えたはずなのに、多分だけど、その記載がない。
日本書紀の著述者はおっちょこちょいで書き忘れたのかな?
それとも西暦720年に完成したので、それよりも300年も前のことだから忘れてしまっていたのかな?

『そうではない』

彼らは知っていた。
馬の意味も、価値も。
そしてどのルートを通ってきたかも。
すなわち『歴史』を。

知っていた。
だが書かなかった。
書けなかった。

中華文字で書く以上、それは『中華のフレームワーク』を用いるということになる。
中華のフレームワークでは、華的世界を中心に、『夷狄』を排撃することになる。
中華思想は独り立ちで存在できるわけではない。
『夷狄』を排除し、『悪』を懲らしめ、征伐し、『正義』を通すことにある。

日本書紀は『正義』を通して描かれた『正史』だ。
720年の正義を。

彼らは知っていた。
西暦400年の『正義』を。

だが、書かなかった。
書けなかった。

世界は変わってしまったのだ。
裏が表になり、
表が裏となってしまった。

流れる時間の中で日本は「大人」になったのだ。
未熟未開な存在から成熟し、開明したのだ。
中華文明によって。
まさに「文明開化」って言ってもいいだろう。

でも大人になるってそういうこと?
未熟未開な時代は恥ずかしいこと?
だから書かない?
それが『正史』?

それじゃ400年代を生きた者たちは浮かばれないじゃない?
500年代も600年代も。
だって彼らはみんな左衽して、『馬』を愛したのだから。

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