『新羅』と『倭』04 北方ユーラシア文明の核心『馬』02 契丹、そして日本

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契丹

参照 契丹王朝 内蒙古遼代文物精粹
参照 契丹王朝 内蒙古遼代文物精粹
参照 契丹王朝 内蒙古遼代文物精粹
参照 契丹王朝 内蒙古遼代文物精粹

「鮮卑の後裔」、『キタイ』、『契丹』のものである。
彼らは北魏の時代からすでに史書にその名をあらわすことになる。
当時は強国であり、大国であった、お隣「高句麗」の陰に隠れたままであった。
やがて高句麗滅亡後、その地を支配した国「渤海」を破り、中華にもその威光をかざす『北方アジア』の『主役』となる。

彼らもまた墓に『馬具』を入れた。

参照 契丹王朝 内蒙古遼代文物精粹
参照 契丹王朝 内蒙古遼代文物精粹
参照 契丹王朝 内蒙古遼代文物精粹
参照 契丹王朝 内蒙古遼代文物精粹

『馬』を愛した。
見ればわかる?
そう、わかって欲しい。
『見て』感じて欲しい。
自ら感じた、感性、直感を信じて欲しい。
『日本人』としての直感を。

参照 契丹遺珍
参照 契丹遺珍
参照 契丹遺珍
参照 契丹遺珍

敵国、『北宋』もってしてもキタイの馬具を『天下第一』と称させるほどの馬具

参照 契丹遺珍
参照 日本馬具大鑑

左はキタイ出土のもの。右は藤ノ木古墳の出土のもの。
この丸いもの、おそらく「用途は同じ」であろう。
丸いものの下にふわふわした毛の装飾をつけて馬の首にぶら下げたのだろう。

参照 内蒙古遼代壁画
参照 契丹遺珍
参照 内蒙古遼代壁画
参照 内蒙古遼代壁画


馬の世界は『古典』の世界でもある。
馬の様式はそんなに変わらない。彼らは伝統を重んじた。すこぶる。
キタイと藤ノ木古墳???
そんな比較聞いたことない?混乱する?
混乱しよう。
今は混乱が必要なんだ。

参照 松遼風華 契丹女真
参照 松遼風華 契丹女真
参照 松遼風華 契丹女真
参照 松遼風華 契丹女真

このキタイ人、契丹人、頭を剃っていた。

まるで日本の武士のように。

えっ、髪型が違う?
確かに、違う。だが問題はそこ?髪型?ヘアースタイル?

そうじゃないだろ。頭を剃っていたのだ。髪を剃っていたのだ。

日本と関係ない?

いいかい、冷静に考えてくれ。
契丹が主役の時代は900年代から1100年代まで続く。
この時代、頭を剃っていたと確認できるのは『契丹』と『日本』だけなのだ。
惑星地球で『契丹』と『日本』だけなのだ。

ファーストインパクト

日本の武士はなぜ頭を剃ったのか?
Googleで検索してみた。
なんと、カブトをすると蒸れるため、頭巾をすると蒸れるため、って出てきた。

マジで、こんな見解なの?
大真面目で言っているの?
これが学問的見解なの?

頭を剃る風習は、慣習は、『文化』は、契丹以後も続く。
女真に、そしてモンゴルに。

頭を剃る『文明』は契丹以前にもある。
東胡に、烏丸に、鮮卑に、拓跋、禿髪、タクバツ、タクハツに。

なぜ『日本』の文化を、それら『北方ユーラシア文明』の中で捉えられないのか?

なぜかは知っている。
それは『中華思想』を中心に歴史を考えているからに他ならない。

『中華』が設定する『夷狄』、『敵』、未熟未開な野蛮な『獣』、それらには『文明はなし』、『文化は存在しない』としている。設定している。

そして『日本人』が歴史を考察する視線も、この『中華の視線』に仮託している。

『自らの歴史』、日本の歴史からできるだけ『夷狄』を排除して考察している。
まるで日本は中華思想の正統後継者、あるいは正統理解者であるように装って。

中華思想は日本に影響を与えた?

もちろん、そうだ。

だが、二番目に過ぎない。

最初ではない。セカンドなのだ。

最初の衝撃、『ファーストインパクト』なくして、セカンドインパクトは存在しない。

日本の歴史を語るときこの『ファーストインパクト』としての『北方ユーラシア文明の受容』を語らなければならない。

どうしてもだ。どうしても必要なんだ。日本の歴史の中に、確かに『夷狄』が、『胡』が存在するのだから。

参照 近世風俗図譜11 公家・武家
参照 近世風俗図譜11 公家・武家
参照 近世風俗図譜11 公家・武家
参照 近世風俗図譜11 公家・武家

なにゆえ、日本人は、特に、『武士』は頭を剃り、馬に乗ったのだろう?
なにゆえ、『武士』は『武を誉』だとする価値観を持ったのだろう?
彼らは、『戦いの中』に何を見出したのだろう?

『武』による結合、『戦い』の末の結合、そして『天下布武』という概念。

これらの価値観は『中華思想』の中枢から程遠い。

だが、限りなく近い世界がある。
限りなく近い文化がある。

それは『夷狄の世界』、そして『馬の世界』。
『馬主の世界』。

日本における馬具副葬

チベット、モンゴル、そして契丹の馬具を見てきた。巡ってきた。

なぜ、こんな「辺境世界」の馬具を見なければならないのか?
いぶかる人もいるかもしれない。

お伝えしたい。

それは「中国では馬具が発見されていない」からだ。

墓に埋める副葬品はもちろんのこと、伝世品としても、『まったく残存していない』。
『存在していない』のだ、馬具が。

これでは、『比較できないのだ』。

何と?

『日本』とだ。

お伝えしたいことがある。

有史以来、惑星地球誕生以来、世界で最も馬具を副葬した国はどこになるだろう?

モンゴル?
チベット?
カザフスタン?
トルコ?

それともギリシャ?ローマ?フランク王国?それともゲルマン人?フン族?

エジプト?メソポタミア?インダス?それともマヤ文明?

アメリカ?イギリス?フランスドイツスペイン?

それとも高句麗、新羅、百済?あるいは台湾?

まさか中国。これは確実に違う。

どれも違う。

世界で最も馬具を墓に入れた国、それは『倭』であり、『日本』に他ならない。

参照 日本馬具大鑑
参照 日本馬具大鑑
参照 日本馬具大鑑
参照 日本馬具大鑑
参照 日本馬具大鑑
参照 日本馬具大鑑
参照 日本馬具大鑑
参照 日本馬具大鑑
参照 日本馬具大鑑
参照 日本馬具大鑑
参照 日本馬具大鑑
参照 日本馬具大鑑
参照 日本馬具大鑑
参照 日本馬具大鑑
参照 日本馬具大鑑
参照 日本馬具大鑑

これでも『日本』から発見された馬具の100分の1、200分の一に過ぎない。

日本は、あるいは当時の『倭』は異常に馬具を愛した。
そしてもちろん『馬』を愛した。

異常に?異常ではない。『正常』だ。
異常という見方は、馬具がまったく発見されない中国からみた見方、味方だ。

馬を愛する国においては、黄金に輝く馬具の副葬は発見されている。
慕容に、高句麗に、新羅に。

時は流れ、やがて『古墳時代』は終わる。

墓に、あの世での生活に必要なものを入れる、という風習は終わる。
日本の古墳から馬具が出土するという時代は終わることになる

馬具は、馬は、一時の流行りだったのだろうか?日本にとって。
馬に熱狂した日本は単なる一時の気の迷いだったのだろうか?

馬は消えたのだろうか?日本から。

参照 日本馬具大鑑
参照 日本馬具大鑑
参照 日本馬具大鑑
参照 日本馬具大鑑
参照 日本馬具大鑑
参照 日本馬具大鑑
参照 日本馬具大鑑
参照 日本馬具大鑑
参照 日本馬具大鑑
参照 日本馬具大鑑
参照 日本馬具大鑑
参照 日本馬具大鑑
参照 日本馬具大鑑
参照 日本馬具大鑑

もちろん、みんな知っている。

『馬』は消えなかった。
消えるはずもなかった。

墓に副葬するという風習が廃れても、彼らは、『私たちは』、馬を、馬具を愛好し、時に寺に、神社に、あるいは正倉院に献納した。

神と、仏に、そしてなによりも『天』に近い場所に、馬を、と。

お伝えしたことがある。

「世界」で伝世品として最も『馬具』が残っている国がある。

どこだろう?

モンゴル、チベット、それともロシア、アメリカ、アフリカ?中国、朝鮮?

どれも違う。
その答えは『日本』なのだ。

『日本』は世界で最も、古代にしろ、中世にしろ、時代を問わず継続して『馬具』をとても大切に扱った国なのだ。

数百年前の、あるいは1000年を超える馬具が当時の状態のまま『保存』されている国は存在しない。
世界でたった唯一、一か国だけ、それが『日本』なのだ。

それは世界で最も『馬』を愛した国であることの証明でもあるし、なにより日本は『馬を心から必要』としたともいえる。

『日本人』は、そして当然『私たち』は『馬なし』の歴史を築いてきていない。

馬はどこから?

では『馬』は一体いつ、どこからやってきたのだろうか?

現在、歴史認識においてこの『馬』ほど過少評価されている存在はない。

文字、儒教、律令、仏教の渡来は盛んに述べられているのに、なぜか『馬』の渡来は語られない。

語られたとしても、それをただの『家畜の渡来』としている。

そうではない。
馬が『倭』に入ってきた時、それは同時に『北方ユーラシア文明』も同時に入ってきたのだ。

明治維新という『文明開化』が西洋文明の受容と不可分なように。

お伝えしたことがある。
後に述べるように、『西暦400年以前は日本列島に存在していない』。

つまりある時を境に、突然、大量に、安定的に、持続的に、『出現した』。

馬の道を探ることは、中国文字で書かれた日本書紀とは別の世界、別の世界線を探ることにもなる。

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