『新羅』と『倭』03 北方ユーラシア文明の核心『馬』

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馬主の国の世界

西暦629年、貞観3年、玄奘三蔵は仏教の聖地であり母国であるインドを目指し旅に出た。
中国に帰国後、彼の見聞した記録は『大唐西域記』としてまとめられた。

その中で彼は面白いことを言っている。
世界を四つに分け、それぞれの地には四人の君主がいると。
南(インド)は象主の国、西は宝主の国、そして自らの出自である東(中国)の国は、『人主』の国だと評している。

『人主』の国の風俗は機敏で仁義があり、世を明るく照らしていると。車や服装には序列があり、冠を被り右衽であると。(原文:人主之地。風俗機惠仁義照明。冠帶右衽車服有序。)

そして『北方』を称して、彼は言う。
『馬主の国』だと。
そう、北方は馬主、『馬』が主の国なのだ。

北方ユーラシア文明の核心はこの『馬』にある。

何度も言う。『馬』を『畜』だと扱ってはいけない。
『馬』は『貴なるもの』であり、『聖なるもの』であり、『主』であり、『主役』なのだと。

なぜ『北方』は『馬』なのか?
玄奘三蔵は続けていう。
北は寒さに厳しく、馬によいと。(原文:北馬主。寒勁宜馬。)

さあ、『馬』の性質、生態を考える上で重要な要素が出てきた。

馬は寒さがいい。
馬は寒いのが好き。
馬は逆に暑いのが苦手、というか嫌い。でも命じられれば頑張れる。
馬はそんな性質をもっている。

馬は『北方生まれ』の、『北方育ち』なのだ。
その生態上、決まっているのだ。

人が決めたのではない。
神が決めたのだ。
『天』が決めたのだ。

『人』が『人』の性質を持って生まれたように、あるいはそう進化したように、『馬』もまた『馬』の性質を持って生まれ、進化した。

『人為でどうこうなるようなものではない』

この当たり前で常識的な見解が通じない世界がある。
『歴史』だ。
『人が文字で書く歴史だ』
もっと直言しよう、中国文字の世界、『中国史の世界』だ。

人が文字で書く歴史は『人為』でどうにかできるようになっている。
「人が万物の中心で、全てを、世界を、コントロールしている」感を前面に出してくる。

まさに『人主』の国の世界になる。

現代人もまた人間がコントロールできる世界を好む。
それを考えればいかに中国人が「先進的」だったのかがわかる。
あるいは現代人は「古代中国思想」の後追いで生きているだけなのかもしれない。

しかし本来、人がどうにかできる範囲は限られてくる。
動物の生態、特に『馬』の本質的な生態は、人間には変えられない。

彼らを二足歩行にするのは無理だし、しゃべるのに適するとは思えないその長いお口を小さくさせるのも無理なのだ。

そして何より彼らが、馬が、寒さを好み、『北方』を好むことは変えられない。

もう一度言う。
北方ユーラシア文明の核心は『馬』にある。

ユーラシアにおける馬具 チベット、モンゴル

参照 Scythians: Warriors of Ancient Siberia
参照 Scythians: Warriors of Ancient Siberia
参照 Scythians: Warriors of Ancient Siberia
参照 Scythians: Warriors of Ancient Siberia
参照 Scythians: Warriors of Ancient Siberia
参照 Scythians: Warriors of Ancient Siberia

スキタイの遺物である。
なにゆえ、彼らは墓に『馬具』を入れたのだろうか?

参照 Scythians: Warriors of Ancient Siberia
参照 Scythians: Warriors of Ancient Siberia

馬のしっぽを編み込んで何に使っていたのだろうか?
なにゆえ馬のしっぽを墓にいれたのだろうか?

参照 Warriors of the Himalayas
参照 Warriors of the Himalayas

『チベット』の馬具である。
チベット??
なぜ馬?なぜ馬具?
チベットを『心優しい平和主義者の仏教徒』というイメージだけで捉えるのは間違っている。
もちろんそのような側面もある。
しかし、歴史上、彼らもまた『中華』が常に警戒し、実際に何度も衝突した軍事大国なのだから。

チベットが軍事大国、軍事強国であり得た理由は極めて単純で明確だ。
チベット高原が『馬』を生み出す天恵の土地であったからに他ならない。

参照 Warriors of the Himalayas
参照 Warriors of the Himalayas

チベットは『馬』を愛した。
そして『馬』と共にある『馬具』を愛した。

参照 Warriors of the Himalayas
参照 Warriors of the Himalayas
参照 Warriors of the Himalayas
参照 Warriors of the Himalayas

チベットと『馬』。
そして『馬』が繋ぐ、もう一つの高原地帯『モンゴル』。

モンゴルの馬具の出土は意外と少ない。
実はチベットとモンゴル、私たちが思っている以上に近しい関係にある。
今から2000年前の史料にも『酒泉郡以隔絕胡與羌通之路』(漢書:匈奴伝)とあるようにモンゴル高原の主「匈奴」とチベットの「羌」が常に通商していたことを示唆している。
『漢帝国』はその関係を分断したことを誇っている。

そしてその関係はずっと続いた。
チベット高原とモンゴル高原。

参照 Warriors of the Himalayas
参照 Warriors of the Himalayas

ヨーロッパの古書籍の挿絵に登場する『来襲する凶悪なモンゴル兵』の鎧がなぜかチベットで見つかっている。

参照 Warriors of the Himalayas
参照 Warriors of the Himalayas
参照 Warriors of the Himalayas
参照 Warriors of the Himalayas

ちなみにヘルメット。
日本の古代に詳しい人は似たようなものを見たことがあると思う。

参照 日本の古墳文化 慶州博物館
参照 日本の古墳文化 慶州博物館

日本の考古学者はなぜこの兜を『蒙古鉢形』と名付けたのだろう?
だって古墳時代に『蒙古』モンゴルはいないでしょ。
もっと他に適した表現はなかったのかな。

しかし「1000年後」も、あるいは「1000年前」もその基本的な構造は変わらない。
上の鎧も日本風に呼べば「小札」を重ねた様式として分類されると思う。
『進歩がなかった』というよりは、軍事、軍備は古代において非常に洗練された形ですでに『完成形』となったのだろう。

参照 Warriors of the Himalayas
参照 Warriors of the Himalayas
参照 Warriors of the Himalayas
参照 Warriors of the Himalayas
参照 Warriors of the Himalayas
参照 Warriors of the Himalayas
参照 Warriors of the Himalayas
参照 Warriors of the Himalayas

彼らの『世界』。『チベットの世界』。
多分、私たち日本人なら理解できるんじゃないかな。
彼らが『武』の中に何を見たのかを。

さて、最後にお伝えしたことがある。

矢を折る話

魏書の中にこんな話がある。
それは北魏の時代、チベットに君臨した『吐谷渾』の話である。

阿豺という名の時の王が、死にのぞみ、後継に託す者たちを集めた。
その中の一人の男に一本の矢を渡し、こう命じた。

「折ってみろ」と。

男は命じられたままに矢を折った。
矢は簡単に折れた。
すると阿豺は今度は19本の矢を渡し、同じく折ってみろと命じた。
阿豺には20人の息子がいたのだ。

男は19本の矢を折ろうとしてみたが、折ることはできなかった。

阿豺は言う。
「お前たちは知っているだろうか?一本の矢はたやすく折れるが、矢が多ければ折ることは難しい。お前たちは力を合わせ、心を一つにせよ。そうすれば国は強固となる」と。

阿豺は言い終えると、そのまま息を引き取った。

原文;俄而命母弟慕利延曰:「汝取一隻箭折之。」慕利延折之。又曰:「汝取十九隻箭折之。」延不能折。阿豺曰:「汝曹知否?單者易折,眾則難摧,戮力一心,然後社稷可固。」言終而死。(魏書列伝89吐谷渾伝)

お伝えしたことがある。
1662年、モンゴル人によりモンゴル語で書かれた書籍『蒙古源流』にこんな話がある。

アラン・ゴアという名の女性が五人の息子に一本ずつ矢を渡し、こう命じた。

「折ってみろ」と。

五人の息子はそれぞれの一本の矢を簡単に折ってしまった。
そこでアラン・ゴアは五本の矢を束ね、もう一度折ってみろと命じた。
息子たちはいずれもその五本の矢を折ることはできなかった。

アラン・ゴアは言う。
「息子たちよ、一本の矢は折れやすい。しかし五本の矢が折れないように、あなたたち兄弟は力を合わせて生きなければならない」と。

私たちは『この話』を知っているのではないだろうか?
『毛利元就の三本の矢』の話のことだ。

ちなみにこの話、『中国の話』としてはどこにも残っていない。
史書にも、説話集にも。

なぜか『チベット』、『モンゴル』、そして『日本』だけなのだ。

チベット、モンゴル、日本。
繋ぐものは何?
仏教?
実はそれも重要な要素だ。
しかしこの話の本質は仏教説話とは程遠い。

『時』も『場所』も、『時代』も『時間』も超越して姿を現す『世界』。
『時空』を超えてなお一貫性を持つ『文化』と『文明』。

どうだろうか?
もし、この話が『儒教』や『中国の礼法、礼制、古典』の引用であれば、孔子の話であれば、すぐさま『中華以外の世界、チベット、モンゴル、日本という塞外、最果ての地にも中華教育が行き届いていた』と喧伝されるのではないだろうか?
中華の恩恵、恩賜、恩寵だと。
中国における『冊封体制』だの『羈縻政策』だのを語る人たちは必ず飛びつく。

ところがどうだろう?
『時空』を超えて確かに顕在化しても、それがチベット、モンゴル、日本という繋がりなら目を背ける。
これは別の話だと。
だって『矢の本数』が違うではないかと。
私たちはそうやって生きてきた。

目を背けてきた。

歴史を見るときに、愛国精神の発露であるオンリージャパン歴史か、高次文明体の中華思想の伝播しか言わない。教えられない。

私たちは歴史認識において重要な史点、視点が欠けている。

それは『日本の中に北方ユーラシア文明が確かに存在している』ということだ。

今はまだ眠ったままなのだろう。
誰も指摘しない。
というわけで、起こしにでも行こうか?
一緒に、そして全員で。

だってこれは『私たちの歴史』なんだから。
『私たちの物語』なのだから。

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